OUTSIDE IN TOKYO
FILM REVIEW

コッポラの胡蝶の夢

上原輝樹



フランシス・フォード・コッポラ監督が、初めて全面的に“夢”を肯定した映画、『コッポラの胡蝶の夢』(原題:Youth Without Youth)は、『ゴッドファーザー』『地獄の黙示録』と並ぶ、彼の代表作となるだろう。

コッポラ監督はインタヴューの中で、本作の製作を振り返って次のように語っている。「私は、影響を受けて来た50年代、60年代のヨーロッパや日本の監督のように、パーソナルな監督になりたいとずっと思っていた。皮肉にも、若くしてハリウッドのメジャースタジオの大物監督のようになってしまったが、それでも、心の中ではずっとそのように思い続けていた」コッポラ監督は、こうした主旨の発言を今までも事ある毎に繰り返して来た。事実、同世代では“パーソナル”な映画監督の代名詞と言って良いだろう、ウディ・アレンの、ハリウッドに背を向けつつも、毎年1作ずつ作り続けているコンスタントなキャリアには、あからさまな憧憬の念を何度も表してきている。そうした積年の思いを晴らす事になった本作は、コッポラ監督自身が製作と脚本を兼ね、ハリウッドを離れ自らの意志決定で映画製作の全プロセスをコントロールする“自由”と“リスク”を背負って創り上げた快心の一作だ。

「監督自身が製作と脚本を兼ね」と簡単に書いたが、通常“映画”において、事はそう簡単ではない。特にフランシス・フォード・コッポラのような巨匠の場合は尚更だろう。クリント・イーストウッド監督・主演の『ホワイトハンター ブラックハート』(1990)では、『アフリカの女王』(1951)撮影時の巨匠ジョン・ヒューストンをモデルにした、奔放で我が儘だが、魅力溢れる映画監督の役を、イーストウッド自らがいつも以上の身軽さで演じている。『ホワイトハンター ブラックハート』の脚本は、当時ジョン・ヒューストンと共にアフリカに同行しつつも『アフリカの女王』の脚本家としてはクレジットされずに終わったピーター・ヴァテルによるもので、撮影よりも象狩りに情熱を燃やす映画監督の破天荒ぶりが、愛憎相半ばする複雑な感情が織り込まれた視点から皮肉たっぷりに描かれている。そして、資金を捻出するプロデューサーは、守銭奴で管理マニアであり、監督やスタッフからの信望は薄く、アフリカに到着すれば猿にもからまれる人物として、滑稽に描かれている。それは往年のハリウッドで絶大な権力を持っていたプロデューサーに対する脚本家からの諧謔やクレジットされなかった恨みも込められていたのだろうが、つまり、ハリウッドのメジャースタジオにおいて、製作・監督・脚本という役割には、それだけ甚だしく違うそれぞれの役目があるという事は“映画”製作の大前提だった。

コッポラ監督が今回、その3役を担い、パーソナルな映画作りを実現するに至ったきっかけは、娘ソフィアの映画『ロスト・イン・トランスレーション』(2003)を見て、ソフィアと同じように、自分だけの秘密の映画が作ることができるはずだと気付いたからだという。これは、コッポラ・ファミリーの絆の強さをただ単に物語るエピソードとしてではなく、ハリウッドのスタジオ・システムよりも、現代的な感性にしなやかに感応する、依然として瑞々しい感性を持ち続けている映画作家の発言としてより相応しいものに聞こえる。



この巨匠の瑞々しい感性に素晴らしい存在感と演技で見事に応えたのが、『ヒトラー 〜最期の12日間〜』(2004)でヒトラーの秘書役を演じて一躍脚光を浴びたアレクサンドラ・マリア・ララだ。今最もスクリーン映えする女優と言い切って良いだろう、マリア・ララはコッポラ作品史上稀に見る、旬の美しい女優でありながら、メイキャップによる老け役も堂々とこなし、本作の豊かさに最大限貢献している。ZOETROPE:ALL-STORYの『Youth Without Youth』公開記念号で彼女は、撮影時のエピソードをコッポラの妻エレノアのインタヴューに応じて語り、20回ほどテイクを重ねた後に、今度は同じシーンを台詞なしで演ってみよう!と言われ、毎日が驚きの連続で楽しくてしょうがなかった、と濃密な撮影の日々を振り返っている。

このように何十回もテイクを重ねるのが、コッポラの流儀だが、それ故に、予算超過を嫌うハリウッドの重役や投資家とは常に闘いながら映画を作ってきた、その壮絶な闘いの歴史は、様々なところで語られ今や映画史における伝説となっている。そのコッポラ監督が、本作は誰の顔色を窺うこともなく自らの資金で好きなように撮り上げた、その映画の幸福な成り立ちが、本作に“大いなる楽観性”を与えたのだと思う。

本作の邦題「胡蝶の夢」は、蝶になって大いに遊ぶ夢を見た、夢から覚めると、果たして実際に夢を見たのは、蝶だったのか自分だったのか、わからなくなったという荘子の説話を参照している。この説話の“夢”の部分に対応するのが、ティム・ロス演じるドミニクが、70歳の時、雷に打たれ、みるみるうちに若返り、学者としてのライフワークである“言語の起源を探る旅”を再び探求し、遠い過去に失った“永遠の愛”と再び出会うことになる、というまさにファンタジックな夢物語なわけだが、コッポラ監督は、“大いなる楽観性”を発揮して、この夢物語を巨匠ならではの手捌きでタペストリーのように繊細なディテイルを織り込み、リアリスティックな映像絵巻を創り上げた。

かつて、コッポラ監督の映画においては、“夢”はあったとしても、悉くついえるものとして悲劇的に描かれることがほとんどで、空想めいた“夢”物語が入り込む余地は、あえて巧妙に避けられてきた印象すらあったのだが、10年振りの新作である本作は、そうしたわけ知り顔の予想を見事に裏切り、初めて、“夢”と“現実”を対等に描いた作品を作り上げた。これこそが、コッポラ監督が念願していた“パーソナル”な映画のひとつの完成形なのだろう。映画の最後で、ドミニクが故郷ルーマニアのカフェ・セレクトで旧友との再会を果たした翌朝、ひとり寂しく雪が降り積もる冷えきった舗道に倒れた時、供される3本目のバラに、コッポラ監督の“夢”に対する肯定のYESが署名されたのだと思う。

そして、1984年に前作から13年の歳月を隔てて発表された、巨匠セルジオ・レオーネ監督の遺作『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』のラストシーン、悪ガキ時代の回想シーンと恋するデボラ(エリザベス・マクガーバン)といるシーン以外は、終止パッとしない表情のヌードルスこと、ロバート・デ・ニーロが、阿片窟で満面の笑みを浮かべている。その満面の笑みは、大好きだったデボラとの失恋、親友マックス(ジェームス・ウッズ)による裏切りといった実際に起きた辛い現実よりも、本当に価値のあるものとして、少年時代やデボラとの楽しかった過ぎ去りし“まぼろしの時間”を阿片の力を借りて夢見るように追憶することから生まれている。このデ・ニーロの満面の笑みに託された、4時間にも及ぶ巨匠の遺作の“夢”に対するYESと言う“大いなる楽観性”こそが、『コッポラ 胡蝶の夢』でも共有されていた態度に他ならない。








『コッポラの胡蝶の夢』
YOUTH WITHOUT YOUTH

監督/脚本/製作:フランシス・フォード・コッポラ
製作総指揮:アナヒド・ナザリアン、フレッド・ルース
原作:ミルチャ・エリアーデ
撮影:ミハイ・マライメア・Jr.
美術:カリン・パプラ
衣装:グロリア・パプラ
編集:ウォルター・マーチ
ヘアメイク:ピーター・ソード・キング、ジェレミー・ウッドヘッド
音楽:オスバルド・ゴリホフ
作家/翻訳/言語指導:ウェンディー・ドニガー
出演:ティム・ロス、アレクサンドラ・マリア・ララ、ブルーノ・ガンツ、アレクサンドラ・ピリチ、マーセル・ユーレス、アンドレ・ヘンニック、エイドリアン・ピンティー、マット・デイモン(特別出演)他

2007年/アメリカ・ドイツ・イタリア・フランス・ルーマニア/124分
DOLBY SR・SRD/1:2.35/カラー
©2007 American Zoetrope, Inc.
配給:CKエンタテイメント

『コッポラの胡蝶の夢』
オフィシャルサイト
http://www.kochou-movie.jp/

参考文献

『コッポラの胡蝶の夢』公式パンフレット CKエンタテイメント

「フランシス・F・コッポラ」
株式会社エスクァイア マガジン ジャパン

ZOETROPE: ALL-STORY『Youth Without Youth』The Commemorative Edition