OUTSIDE IN TOKYO
Abdellatif Kechiche INTERVIEW

アブデラティフ・ケシシュ『アデル、ブルーは熱い色』インタヴュー

2. 人間の魂を知覚出来る距離まで近づきたいという思いがある

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MC:映画のタイトル、原題は『Adele: Chapters 1 & 2』(『La vie d'Adèle - Chapitres 1 et 2』)となっていて、映画を観終わった後に、彼女はその後どうなるんだろうと、続編が観たくなりました。
アブデラティフ・ケシシュ:可能性はありますよね。

MC:本当ですか?ということは日本で大ヒットして、たくさんの劇場でお客さんが観てくれたら2、3、4、5、6、、と。
アブデラティフ・ケシシュ:まだ、この映画から私はあまり離れていなくて、ちょっとホットな気分でいるので、次にどういう映画を撮りたいかという気持ちが定まらないんです。そろそろ他の作品に着手しなければいけないんですけど、いまのところはこの映画のプロモーションで色々な国を旅して、色々な人々に出会っています。そうした中で自分の中に様々な思い、欲求が生まれてきます。特に、日本に来た今、私のことを日本の皆さんに是非伝えたかったという思いがあります。私がどれほど日本の映画と思春期の頃から共に育ってきたか、そのことを皆さんに伝えたかった。もちろん日本映画には、黒澤監督、溝口監督、成瀬監督、素晴らしい監督たちがいらっしゃいますが、中でもとりわけ私自身を惹き付け、日本の文化に対するビジョン、日本人に対する愛、日本の伝統に対する恩、そういうものを育んでくれたのは、小津安二郎監督なんです。このことは、どうしても一言皆さんにお伝えしたかったのです。小津さんは私の心の中にずっといるのです。

以下より、単独インタヴュー
OUTSIDE IN TOKYO(以降OIT):『アデル、ブルーは熱い色』、大変素晴らしいと思いました。“アデル”という女性は私の中で生涯生き続けていくと思います。カンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞した素晴らしい女優お二人については、昨日の東京国際映画祭の舞台挨拶で語られていますので、ここでは、まず、フレーミングについて伺いたいと思います。クローズアップを多用していて、カサヴェテスの『フェイシズ』(68)を思い出しながら観ていました。どの段階でああいうスタイルにしようと決められたんですか?
アブデラティフ・ケシシュ:最初から話をさせて頂きたいんですけれども、私の最初の作品(『ヴォルテールのせい』(00))から既に、人間の顔に近づきたいっていう欲求はあったんですね。私の中ではカットが例えクローズアップであっても、フレームの外のことは、観客は映し出さなくても感じ取ってくれるっていう思いがあるんです。ですから私としては出来るだけ近づいて、こう言って良いのであれば、人間の魂というものを知覚出来る距離まで近づきたいという思いがあるわけです。引きのカットよりも、より人間の魂が我々に語りかけてくる、それがクローズアップだと思っているところがあります。しかし、そのことに関して私はやはり意識的でしたから、ちょっと考えてもう少し距離をとった方がいいんじゃないかと思って、違うアプローチを試みたこともありました。でもその度に、やはり作品を重ねるごとに、何か自分の中に空虚さを感じたり、本当に肉体的な気詰まりを感じたりする、離れてしまうと何か居心地の悪さを感じてしまうんです。恐らくそれは、写真家にしても画家にしても同じだと思うんですけど、本能的に自分がどの部分を語りたいかっていうのは、その監督の、そのアーティストの資質の問題で、私の場合はもう自然に、近づきたいっていう欲求があるんだと思うんです。ただ、今回の作品に関しては、実はやはりちょっと遠ざかってみようということを撮影監督に事前に話していたんですね。そして今までの演出方法とはちょっと方向性を変えようじゃないかということで臨んだんですけれども、実際に現場に入ってみると、自分の考えているものと違うということで、殆ど自然な形でまた元に戻ったのです。その近さが自分にとって一番心地良い、心休まる距離なんですね。


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