OUTSIDE IN TOKYO
Andrey Zvyagintsev INTERVIEW

アンドレイ・ズビャギンツェフ『裁かれるは善人のみ』インタヴュー

2. ロシア人は権力を軽蔑しています。権力は生活を豊かにはしない。

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OIT:判決が一本調子に読み上げられる法廷シーンに象徴される、非人間的にオートメーション化された手法で、弱者を社会の片隅に追いやる権力機構の得体の知れなさを、海の怪物“リヴァイアサン”に喩えた本作は、現代ロシアのポートレイトなのでしょうか?
アンドレイ・ズビャギンツェフ:主人公コーリャのモデルとなったのは、アメリカ、コロラド州のマービン・ヒーメイヤーが不正義に対して起こした行動(*市役所と対立し続け、ブルドーザーで建物を破壊した)で、それに一番感銘を受けました。わたしにとっては、人間対国家の物語です。特定の政治システムについてではなく、どの国でもあり得ることです。国家と向かい合った時の、人間の話です。特定の政治システムに“馴染む”のか、“逆らう”のかと解釈されたいとは思っていません。どこにでも起こり得る現実として、芸術的なアプローチをとっています。わたしは映画監督であり、政治に対して活動的ではありません。とはいえ、自分の周りで起こっていることに目を瞑っていることも出来ないのです。

OIT:歴代書記長の肖像をカラシニコフで撃とうとするシーンがありましたが、今のロシアの権力構造をどのように見ていますか?
アンドレイ・ズビャギンツェフ:ロシア人は権力を軽蔑しています。権力は生活を豊かにはしない。かつては、ロシア人は権力を恐れていた時代もありました。スターリンが生きていた時が特に顕著でした。スターリン以後、指導者たちは喜劇的な象徴となりました。たとえば、フルシチョフやブレジネフについてのジョークはたくさんあります。権力の座についている人に対して、人民が満足していない時には、ユーモアやアイロニーによって、軽蔑する対象との距離を取るようになるのです。

OIT:ロシア正教の司祭は、裏では「権力は神がもたらし力とともにある」と語り、表では「神は力ではなく真実に宿る」と語ります。ここには、宗教組織は存在しているが、真実も神も存在していません。廃墟と化した、かつての教会の天上にはフレスコ画が描かれているが、新しく作られた教会の天上には安っぽい照明器具が取り付けられています。今や、“神”がいないだけではなく、“文化”も失われている。もはや人々は絶望するしかないように見えます。
アンドレイ・ズビャギンツェフ:国家は多かれ少なかれどこでも同じようなもので、無法で統制されていないものなのではないかと考えるようになりました。陳腐な考えかもしれませんが。アウグスティヌスの「神の国」の中で、興味深い質問がありました。国家と盗賊団との違いは何か、と。どちらも人々の集合体で、指導者がおり、確立された、合意されたシステムを持つ組織です。唯一の違いは法律が存在するかどうかです。
政府が真に法によって統治されているのであれば、精神性についてもっと容易に語ることができるでしょう。精神は形而上学的な概念なので、何でもでっち上げられるし、すべてのことを正当化できます。
私は教会に対して敬意を持っています。けれども、そのような精神性をもった教会はいまはもうほとんどない。服従と忍耐を示したエンディングは、ロシアでは典型的だと言えます。権力に反抗した結果において、ロシア的な特徴を持っています。とても悲劇的なことです。


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