OUTSIDE IN TOKYO
JEAN-PIERRE & LUC DARDENNE INTERVIEW

ダルデンヌ兄弟『サンドラの週末』インタヴュー

2. 社会の中で居場所のない人間を、スクリーンの中心に据えたいと思った

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Q:本作は、主人公のサンドラが、寝ているところに電話がかかってきて起こされる、というシーンから始まります。サンドラは、何度となく、ゆっくりと休みたいのに夫に声を掛けられたり、電話がかかってきたりして起こされてしまい、現実との戦いに引き戻される。ちょっと弱っている主人公という女性がサンドラだと思うのですが、これは今までのお二人の作品の中の主人公的ではない、新しいタイプだなと思ったのですがその辺いかがでしょうか?
リュック:私達は、サンドラを最初は寝ている、それから立ち上がる、最後には一人歩きが出来るようになるという風にイメージしました。何回も途中で転んだり、落ち込んだりします、それはいわば彼女の肉体のあり方を考えた時に、最初は横になっている、それから誰かがやってきたり、電話が鳴ったりして起きなければならない、それで、また倒れ、横になる、また立ち上がる、そして結局最後は歩き出せる、そういう風に考えていたんです。確かに、こんな風な人間を描いたのは初めてのことです。彼女は存在したいという欲求を持っていません、いわば自分の中に引きこもりがちで、前に進まず、むしろ引き潮が引くように自分の中に戻ろうとしてしまいます。ある時のインタヴューで兄(ジャン=ピエール)は、この映画は彼女の脆さ、脆弱さに対する礼賛であるということを言っていました。今日我々が生きている社会では、こんなサンドラのような脆弱な存在は受け入れられません、むしろ見捨てられます。弱いし、生活のための戦いをしない、むしろ障害者とみなされて排除され、社会の中で居場所がない人々です。そういう人間をスクリーンの中心に据えたいと思ったのです。
Q:お二人の映画では、人間が生み出した資本主義的な悪循環といいますか、そういうところに主人公が、今回のサンドラもそうですけど、巻き込まれて色々と嫌な目にあっていくわけですけれど、最後のところでは希望といいますか、人間の良心が示されているという気がします。そういった意味で、今の社会や世界に対して、映画で伝えたいことがあるとお考えでしょうか?
ジャン=ピエール:私がそれに答えたせいで世界に大災害が起きないように祈ります(笑)。私達が語ろうと思ったストーリー、とりわけ『サンドラの週末』で語ろうと思ったのは、どのようにすれば他人の身になって考えることが出来るのか、あるいは、出来ないのかという問題です。サンドラが出会う全ての人々を裁くための裁判所のような映画を作ったつもりはありません。ある時点で、この映画の持っている意図を突き詰めていかなければいけないと考えました。つまりサンドラは同僚に会いに行って、私の立場になって考えてみてという風に言います。そうすると時には同僚はあなたもこっちの側の身になって、ボーナスを失うということを考えてみて欲しい、という言い方をします。そういうプロセスを突き詰めていくとすると、映画のラストで、首を切られる人の身になってサンドラは考えてみて、自分の方が解雇されること、自分が職場に復帰しない方を選ぶわけです。ですから映画作りの最初の段階で気付いていた意図を突き詰めていった結果、ああいうラストになったのだと思う。但し彼女にそのようなことが出来たのは、それ以前に他者達と出会ってきたから、他の同僚達と出会ったからこそ、最後に、最初とは違う自分になることが出来た。最初サンドラは、みんながボーナスの方を選んだ気持ちは良く分かる、もうそれは変えられないと言っている、ラストのサンドラとはまったく違う存在だったのです。私達は、もう全てがおしまいだ、もう希望はない、世界は終り、カタストロフに向かっているというような、そういう態度をとって自己満足したいとは思いません。サンドラが気付いたように人間は変わることが出来ると言いたいと思いますし、その考えがナイーブだとは決して思いません。
リュック:歴史は続くのです(笑)

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