OUTSIDE IN TOKYO
Jacques Doillon INTERVIEW

ジャック・ドワイヨン『ラブバトル』インタヴュー

2. シーンが音楽性を持つということは、情動的にそのシーンが上手く機能しているということです

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OIT:今回の『ラブバトル』も、言葉の応酬、台詞のやり取りがとても多く、それによって緊張感が保たれていると思いますが、そこまで言葉は大事ではなかったということですか?
ジャック・ドワイヨン:発言じゃないんです、音楽性と言ったのは台詞の内容がどうこうということではありません。台詞に関して言えば、世界一素晴らしい台詞を自分では書いているつもりです、脚本は既に出来上がっている。それを演じた時にそのシーンが音楽的に上手くいっている、音楽的に良く聞こえるというのは、その台詞を言っている俳優達が情動の面で上手く機能しているからそのシーンが音楽的に聞こえるという意味です。それもよく音楽と比べて言いますけれども、同じベートーヴェンのソナタにしてもドビュッシーの曲にしても、感動を与えてくれる演奏者とそうでない人がいますよね。演奏者によっては全くベートーヴェンのソナタが自分には聴こえない場合があります。ですから、ただ楽譜が同じであるだけでは駄目なんです。素晴らしい演奏者であれば本当にベートーヴェンのソナタが私に聴こえるし、全く聴こえさせてくれない演奏者もいる、私を感動させない演奏者もいます。全くベートーヴェンに聴こえないことすらある。このように音楽においても、やはり誰が演奏するかという問題があります。ベートーヴェンの最後のソナタは、25種類、26種類同じ曲を違った演奏でCDを持っています。ドビュッシーにしても同じ曲を15種類くらい持っているし、バッハのチェロ組曲にしてもそうです。一番いい演奏を選びたいから、同じ曲で、そうやって何枚も、何枚も買うんです。このようにあるシーンが音楽性を持つということは、情動的にそのシーンが上手く機能しているということであって、そうすればそのシーンは私を感動させるし、人々を感動させるのではないかと思います。

OIT:今回の『ラブバトル』でもクラシック音楽を選んで使われていますが、それと共に音響にもこれまで同様拘って作り込まれているという印象を受けました。その点について教えて頂いてもいいですか?
ジャック・ドワイヨン:この映画の中でピアノが一つの課題になっています。主人公が子供時代に弾いたことがあるピアノというのが重要でした。だからこそ弾かせなければならなかった、ところがサラ・フォレスティエは全くピアノの練習をしたことがありませんでした。ですからドビュッシーの曲を練習してもらいました。そしてとても下手に弾いています。あまりにも酷いので最初と最後にきちんとした演奏を入れました。入れることがドビュッシーに対する礼儀だと思って、素晴らしい演奏家ミケランジェリの演奏を最初と最後に入れたのです。その他の部分ではもちろんサウンドの編集はしていますけれども、何も付け加えていません。むしろその場で録った音の中から鳥の声を消したり、台詞と台詞の間に聞こえてくる鐘の音を消したり、なるべくピュアなものにしていったのであって、何も付け加えていないです。音の仕事では、こうした実人生では聞こえない、邪魔になるような要素は取る、削除する仕事ばかりです。音を付け加えることは全くしません。付け加えたものは最初と最後のミケランジェリのドビュッシーだけです。

OIT:それはバランスを求めてのことですか、音を引いていくっていうのは。
ジャック・ドワイヨン:バランスではなくて純粋に台詞だけが聞こえるように音を調整したんです。集中をしていれば、今は、私の声だけが聞こえているかもしれませんけれど、実は周りには凄く邪魔な音があります。それで、マイクを付けて録音を始めると、実際はトラクターの音や鳥の声や、悪夢のような騒音だらけだということがよく分かります。サウンドトラックの中の、台詞と台詞の間にあるそういう不必要な部分を消していくという仕事でした。最小限の部分でアフレコをしたところがあります。それは純粋に撮影で上手くいっていなかった台詞、結局あまりにもトラクターの音や飛行機の音、それから鳥の声が入ってしまって、どうしようもない時、台詞をクリーンな音で録るために行ったのです。田舎は静かなところだとみんな思い込んでいますけど、実は全くそうではありません。絶えず何かの騒音があって悪夢のようにうるさいところなのです。そして台詞を純粋に聞かせるといっても、アメリカ映画や韓国映画などで、例えば吹き替えになっているような、そういう聞こえ方があってはいけないということも考えました。



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