OUTSIDE IN TOKYO
JOSE LUIS GUERIN INTERVIEW

ホセ・ルイス・ゲリン『シルビアのいる街で』インタヴュー

3. 私はアントニオーニに酷く借りがある。でもアントニオーニは小津に借りがある

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OIT:それはご自分の写真ですか?
JLG:それは自分が撮った写真ではなくて、普通に買ったものでもいいんです。映画監督にとって、写真というのはミステリー、神秘的なもの、そこから生まれる物語、一枚の写真を見てなぜこうなんだ、次はどうなるんだろうってそこから物語が出来る、それをすごく大事にしたいと思っているので、写真はインスピレーションを与えてくれるものなら何でもいいのです。

OIT:その映画の中のデッサン、彼が描いたデッサンは、写真的なミステリアスな謎めいた役割を果たしている?
JLG:はい、そうです。
部分と全体という関係というか、弁証法的な関係なのですが、デッサンであり神殿の廃墟、ここからまた作っていくローマ時代の神殿であったり、崩れた所を埋めていく作業であったり、両方だと思います。この二つの関係の間にうまれるもの、それは観客と映画の関係だと思います。

OIT:カフェのシーンなんですけど、写真ではないんですがアレックス・カッツのペインティングを想像したんですけど、それは妄想的にちょっと思ったんですが。
JLG:それは一度も考えた事なかったです(笑)。

OIT:見るシーンによってはとてもフラットに見える時があるんですね、それがとても印象に残ったんですが、それについては。
JLG:それは本当にするどい指摘で、私は意識的になんですけど、この映画には二つの視点があって、一つは主人公を通して見る彼の主観的な視点と、引いてみる客観的な視点があるんですね、彼は女性を探し求めて、もう女性しか見ていないわけです、ですから彼が歩いて行くにつれ、初めは後を追う所などは周りの景色が見えてるわけなんですけど、だんだんとそれが彼の視点になると前の彼女しか見えなくなってくる、周りがまるで落書きのようにどうでもよくなってくるわけなんですね。一方、そこに例えば彼がいなくなった後の風景っていうのは非常に客観的な風景で、彼がいくらどう思おうがそれとは関係なく日常生活が行われているという、その場合は非常に奥行きが出ると思うんです。彼の視点になると非常にフラットな感じになります。





OIT:それはカフェのシーンでよく出ますよね?
JLG:全部のシーンにどこかにそういう変化を入れています。
路面電車の中でもそうです。電車の中での2人の会話も、どんどんと進んで行くにつれて後ろが抽象画みたいな感じの風景になっていく。

OIT:人の動き、特にカフェのシーンや街を歩いてるシーンもそうですけど、人の動きは監督がコントロールしてるんですよね?
JLG:はい。コントロールしていると言えばしているんですけど、メガホン持って声をかけて、今動けみたいな感じで言えるわけではないので、この街の現実に寄り添って自分が欲しい画を撮れるように、今この状況だったらどんな声が聞こえて、路面電車が通るから次の瞬間に自転車を出そうとか、それにあわせてコントロールしているという意味です。全てがコントロールできるわけじゃなくて、コントロールできないものもあるので、それをどういう風に巻き込んでいくかというのが一つの方法だと思います。

OIT:撮影の時は完全にキャスティングされた人間だけが入っている状況ですか?
JLG:シャットアウトはせずに開いたままで路面電車もいつも通りの運行でそれに合わせてやりました。だから普通の人たちももちろんいて、自分が入れているのは主役の2人とあと数人のエキストラの人達。それは自転車で動くとかそういう人達で、それ以外の人達は街の普通の人々です。

OIT:じゃビンの女性は?
JLG:彼女は私が置いたエキストラです。それで最後の方に出てくる顔に傷のある女性もそうです。ですからあれは現実ではなく私が作り出したものです。

OIT:彼がシルビアを追いかけている一連のシークエンスですが、もちろん『めまい』(58)についてはよく言及されていますが、ヴィスコンティの『ベニスに死す』(71)を想起しました。主人公のアッシェンバッハが、ベネチアの迷路のような街の中をタッジオの姿を求めて彷徨い歩くわけですが。
JLG:それは言われてみればそうだと思います。

OIT:あるいは、アントニオーニの『ある女の存在証明』(82)はいかがでしょうか?
JLG:それは不思議だ。アントニオーニでは『太陽はひとりぼっち』(62)の方が自分では重要かなと思っています。最後のシーン、カメラがずっと据え置きで男も女も約束の場所と時間に来ないのにカメラだけが来てたっていう、それがずっと置いたままで夜になるまで、あそこは全部人が通ったりとかバスが通ったりとかする所をカメラが全部見ていた。クラシック映画の中の“本質的なキス”といいますか、そういうものを感じた映画でした。 今回も三日間、三夜に渡って分かれているんですけど、一番最後の日に彼が今まで行った所をカメラが行くのですが、その時には人はいない、その時は街が主役だったんですね。あの場面というのは、私はアントニオーニに酷く借りがあるというか、アントニオーニを借りたという風に思ってます。
でもアントニオーニは小津に借りがある(笑)。
現代映画のそこに出来るひび割れみたいな3コマくらい何も写らないものを出すという、それはアントニオーニは小津に借りがあると、小津からとったものだと思います。

OIT:ピローショットですね。
JLG:はい。人が写っていないショットがある。

OIT:最後に『イニスフリー』の牛の爆発とこの映画の女性の顔の傷だったり、その暴力的な部分は美学的に監督の中でどう位置づけているのですか?
JLG:すいません、20年前から『イニスフリー』を観てないんで、今あんまり覚えてないんですけど(笑)。当時はすごい飲んでたんで。

OIT:穏やかな中にサスペンスがありながら突然暴力的なものが現れるっていう意識はあるんですか?
JLG:『イニスフリー』に関しましてはアイルランドで当時起こっていたIRAなどの紛争ですね、『イニスフリー』自体にはその争いの描写はないのですが、でも傷はあったわけですね。牛の爆発は映画を撮る数年前に本当に起こった事だったので、それをもう一回再構築してメタファーにしたのです。ずっと地下に埋まってる、地雷のようにいつ爆発してもおかしくない恐怖だったり怒りだったりするものが突然爆発する、そういう事を出したかったんです。
『イニスフリー』もこの映画と同じように夢みること、理想とすることと現実との対比を示しています。ですからジョン・フォードが夢見た憧れの楽園というか、本当にアイリッシュの移民にとっては自分たちの土地だと思えるような楽園という理想と現実の違いというものを描きました。夢みることと現実がどれだけそこに対立があって、それがいい緊張感になるということを表しています。

OIT:顔に傷のある方はどうですか?
JLG:あれは確かに暴力性があるんですけど、シルビアに起こった、もしかしたら起こっているかもしれない事、シルビアがもしかしたらそうなっているかもしれない事というものの一つの可能性として提示しました。彼女は特殊メイクで作っているんですけど、その一つの提示としての要素なので、とても自分にとっては重要ですけれども、今言われたように暴力性があると思います。確かにそう感じると思います。

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