OUTSIDE IN TOKYO
Director's Talk

タル・ベーラ『ニーチェの馬』Q&A:全文掲載

2. 日々生きていく中で段々と我々は弱まっていき、最後には消えてゆく

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Q:リアリティを捉えようとなさっているのは分りました。しかし、例えば音楽の使い方、ヘビーなシーンに対して、ヘビーな音楽なんですというような音楽の使い方をなさっているように感じました。非常に厳しい生活だからこそああいう楽曲になっているのかという風に感じたんですが、そのあたりはいかがでしょうか?ヘビーなシーンの場合はヘビーな音楽を選択して、ただリアリティを捉えるというよりは選択するという行為が入っているんじゃないでしょうか?
タル・ベーラ:選択するということにジャッジ、審判という言葉をお使いだったんですが(注:質問は英語でなされた)、私は審査するということは一切していません。自分達が見ているものを皆さまにお見せしている。それが私の作品であり、自分の抱えている全ての痛みを皆さまと分かち合っている、そのやり方というのもなるべく優しく、そして感性豊かにしたい、それは観客の方の尊厳をリスペクトしているからです。これが私の仕事なわけで、何かに対して自分の審判を下すようなことは一切しているつもりはありません。映画というものは、より近づいていかなければいけないと思う、触れなければいけないと思う、それが映画であり、こういったことが正しいとか悪いとか、そうしたジャッジする行為というのは映画作りの一部ではないと考えています。もう一つのご質問、音楽については、大好きなのです(笑)。音楽というものは我々の人生の一部であります。そして私の場合は幸運なことにヴィーグ・ミハーイという作曲家と83年からずっと仕事をしてきています。彼は作曲家だけではなく、詩人であり、哲学者であり、非常に複雑な人物ではあります。音楽というものは自分にとってひどく重要なもので、時に観客の皆さんにリズムを伝える、そういう役割もあります。例えば今回の場合は、モノトーンで、同じような単調な音楽の繰り返しをわざと使っています。これは人生の日々の営みというのが繰り返しであり、そのことを見せるためでもありますが、ただいつも同じではないんですね、少しずつ同じだと思ってるルーティンでも、日々少しずつそれは変わっていくものなので、これがまた今回見せたかったものの別の側面でもあります。
Q:『サタンタンゴ』も風の描写が非常に素晴らしいのですが、今回も強い風が吹いています。監督には風に対する特別な拘りがあるのですか?
タル・ベーラ:まず風というものは自然の一部であるわけです。自然の要素であり、人間というものも自然の一部である、自然が人間の営みの一部であるわけではない、それは大きな間違いだと思います。人間もまた他の動物や木々であったり天候であったり、そういう大きな自然、そういった世界に属しているわけで、そこで本当は共存しなければならない。これはこの映画を通して伝えたかった、描きたかったことの一つです。時間がちょっとなくなってきてしまっているので、この作品を通してお伝えしたかったことに触れたいと思いますけれども、この作品は六日間のうちに展開します。日本ですから皆さまが聖書に触れられるかどうかは存じませんけれど、聖書には創世記というものがあり、神が最初の六日間で世界を、クソみたいなこの世界を創造なさったという風に書かれています。そして七日目は休息をとった、それが安息日となっているわけです。今回の『ニーチェの馬』ではこの時間を逆行しています、六日間を逆行しているわけですね、そしてその日々のうちに少しずつ何かを失っていき、その最後に六日目の近くなっていくと本当にそこに待ち受けているのは終末であると、これと平行して描いているのがこの馬、そして馬の持ち主、馭者の物語です。この馬は仕事をしたくない、飲み食いも拒否してしまう、そうすると飼い主の方は自分の仕事を失うばかりか、自分の人生、自分の金銭的なものも失い、そして外出することすらできなくなっていく。つまり馬と共に死ぬしかないという非常にヘビーな状況があります、これもまた描きたかったことの一つです。そしてもう一つ、毎日我々はルーティンを生きています、同じような日々が続いていると我々は感じてはいるけれども、毎日は実は少しずつ違っているんですね、それは日を追うごとに我々の人生は確実に短くなっていくからです。日々生きていく中で段々と我々は弱まっていき、そして最後には、非常に静かな孤独のうちにくる終末の時がやって来て、我々は消えゆくわけです。これは皆さんも自分もそう、ですからこういう問いかけに触れたかったのです。


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