OUTSIDE IN TOKYO
DIRECTORS' TALK

対談:フィリップ・クローデル×高橋啓(翻訳家)

3. 観客との対話

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観客A:こんばんは。本から感じられること映画もそうですけれど、それはやはり感動です。これほど長い間、ある映画に携わってご自分自身が自分の作品をご覧になった時、私たちと同じように感動なさるんでしょうか?それともそんなことはないでしょうか?
クローデル:自分の作品はもう観ないことにしています。この映画もあまりにも何度も何度も繰り返して観ましたので、もうたくさんです。編集の時には少なくとも30回は観ています。二年程前から、フランス各地で、そして世界中でプロモーションをしていますが、絶対に映画を見直さないことにしています。時折上映会で、冒頭だけ観ることはあります。いいプリントかどうか質を確かめるためで、すぐに出ていき、作品は観ません。
けれども驚いたことがあります。今おっしゃったように、長い間この映画に携わっていると、撮影をし、編集をしたあとには、作品のすべてを空でおぼえているつもりになります。最初の編集が終わったヴァージョンを上映しました。それは今ご覧になったものとはかなり違っていて、だいたいは同じですが、今よりも15分長いものでした。(そこからいくつものシーンをカットした訳ではなく、今ではいくつかのシーンが少し短くなっています。)こうして初めて通して見て、私は本当に感動しました。まったく予想しなかったやり方で感動したのです。自分自身の作品で感動するとは思ってもいませんでしたし、自分が書き、自分が撮影したシーン、しかも編集で何度も観ていたシーンで涙が浮かぶとは思っていませんでした。こうしたことすべてがとても不思議です。
同じように、初めてクリスティン・スコット・トーマスにこの映画を見せた時、彼女もとても感動していたのをおぼえています。彼女自身もここまで感動的になるとは思っていなかったそうです。これこそが重要だと思います。それがまた私が好きなことでもあるのですが、自分がしていることははっきりと自分自身では把握をしていない。それが面白いのだと思います。私が本を書いている時、そのことはさらに明白です。書いている時、私は読み返したりせず、どんどん先に進みます。そして一冊書き終えた時に初めて読み返すのです。そして普通、読み直して自分が書いたものに驚かされます。映画でさえも、いつもコントロールのもとにあります。全ての段階に強いコントロールが働きますし、しかも様々な局面がくりかえされるので、反芻的な側面がある。しかし、そこにも、何か私たちはコントロールしきれないものがあるのです。そのことにはほっとする思いがします。もったいぶって聞こえるので芸術作品とはいいませんが、芸術の製品といいましょうか、私たちが作っているものはすべて、私たちより強い。私たちを越えているのです。私たちは全てをコントロールしようとしますが、それはむなしく、手の内から逃れてしまいます。私の場合は良い驚きでしたが、悪い驚きもあるでしょう。映画作家たちの経験の中で、自分にとって素晴らしいと思えていたものが、編集を終えて観てみるとがっかりするような作品になっている、自分が到達したと思っていたものとはかけはなれている場合もある。生きるのがつらい経験でしょう。
観客B:こんばんは。『リンさんの小さな子』がすごく好きな作品で、こうやって直接お話しできる機会があることを大変嬉しく思います。質問は今日の映画に関してなんですけれども、主人公の自ら子を殺めてしまうということの体験を通して、その後、徐々に強さのようなものを獲得していく、生きていく強さのようなものを獲得していくように見えるんですけれども、逆に周りにいる人々の方が彼女に対しておびえている、もしくは彼女の体験に対して気を使っているという状況が描かれていて、逆説的に彼女はその不幸な経験から強さを獲得しているということがあるような気がするのですが、クローデルさんがお考えになるそういった強さ、もしくはとても大切なものを喪失してしまった後に獲得していく強さみたいなものの具体的なイメージや、そういうことを獲得していく為にどういうことをすればいいのかということがもしあるのでしたらお聞かせ頂きたいと思いました。
クローデル:ジュリエットについて強さという言葉が適切かどうか分かりませんが、私がこの登場人物をどう見ているかお話ししたいと思います。それはクリスティンやその他の俳優や技術スタッフに現場で繰り返し言っていたことでもあります。すなわち、私たちは死んだ女性を撮影しているのだということです。人生に対して死んだ女性を撮影している。生きることを拒否した、生きることを自分に禁じた女性、世界の外にいるという刑を自分自身に課した女性なのです。だから最初のカットの彼女の顔は、うわの空の顔、破壊された灰色の顔です。彼女に力があるとすれば、それは不在の力なのです。彼女が持っていたのは奇妙な力、世界のすべてから自分を切り離す力、許されるかもしれないのに裁判で何も説明しない、沈黙し、他の人の助けも拒否した、その力です。そのような彼女のアプローチに、もちろん私は賛成しているわけではありません。私の考えでは、またそれがこのストーリーで私が見せようとしたことなのですが、彼女は徐々に、他者の存在のおかげで人生の中に再び生き返るのです。悲劇から15年後に、どれほど人生において他の人たちが重要なのか、他者がどれほど私たちにとって生きる助けになるか、光の方に連れ戻してくれるかを突如として発見するのです。この主人公の変化の課題は、意図的に自分に与えた死から一種の復活への移行、ほとんど無意志のうちに他者の愛によって誘発された再生への移行です。したがって、あなたが指摘された彼女の力は、どこかで砕けるのです。
ご質問のなかで示唆されたもう一つの次元は、どのように監獄が人間存在を変えるかということでした。確かに、私は監獄で長く教えたあと、その経験をどのようにすれば見せられるかをずいぶん考えました。そして私が分かったことは、刑務所自体を見せてはならないということです。刑務所のシーン、刑務所のシークエンスを入れてはならないと思ったのです。映画はしばしば刑務所をカリカチュアにするからです。むしろ刑務所が人に対してもたらすインパクトを見せたいと考えました。刑務所を出獄したジュリエットの場合がそれです。また、周りにいる人々に与えるインパクトもあります。彼女の周囲の人々は、レアの夫やその他の人たちのように、むしろネガティブな反応をします。またレアのように、奇妙な反応をする人もいます。レアは刑務所について語ることや、刑務所という言葉そのものを口にすることを拒否します。あるいは、ジュリエットに即刻オフィースから出て行けと言う会社の経営者のように、暴力的な反応をすることもあります。それらの反応全てが人間的なものなのです。我々自身がみなおそらくそういう反応をするでしょう。ご覧になったと思いますが、別荘での食事の席で、彼女が実は刑務所に15年いたと言うと、全員が笑います。そこにいる人たちは刑務所の体験がある人が自分たちの中にいるということが想像できないからなのです。こうした様々な一連の反応を映画で見せることが、とても興味深いのではないかと思いました。どのように受け入れるか拒否をするのか、そしてこのような経験の後、生きることはどれほど難しいのかを示そうとしたのです。それは人間としての強さがあるかどうかには関わりがないのではないでしょうか。
観客C:こんにちは。ポーランド人やイギリス人、イラク人とか、あと音楽も途中ジプシー音楽が流れてきたり、最後はフォークみたいな音楽で終わったり多国籍な感じがすごくします。私はナンシーに行ったことがないので実際の感じは分からないのですが、フランスの歴史とか文化というものをどう思っているのか聞きたいです。
クローデル:難しいですね。フランスの文化についての広汎な質問です。あなたの質問の冒頭に戻りますけれども、この映画には色々な登場人物が現われます。その中にはフランスではない国、文化に結びついた歴史を持っている人々がいます。お爺さんはポーランド人で、主人公のお母さんはイギリス人、友人であるお医者さんはイラク人、それから女の子はベトナム生まれです。私にとって重要であり、また喜びであることは、いま私たちの家族や友達は世界各国から来ていることを示すことでした。ある種の国や、ある種の人々がいまなおそれを望んでいても、私たちは現在本当に閉ざされた文明の中にいるのではないのです。私たちはますます開かれていく世界に住んでおり、自国を離れ、自分のものではない文化の中で暮らす人に会うことはもはや珍しいことではないのです。自国を離れる理由は意図的なこともあれば、先ほど話題になった『リンさんの小さな子』のように悲劇的な場合もあります。いずれにせよ、世界は開かれ、文化の混交がますます盛んになっています。それはとてもいいことだと思います。ただし、その混交の故に、本来の文化が死に絶えてはなりません。混交が興味深いのは、アイデンティが保持された上で、第3のアイデンティティが生まれるときです。
フランス文化は、今も生きていますが、その文化自体の自己評価よりも若干活力を失っているのではないかと思います。現状を確認すると、フランスと、フランスを構成する文化的なエリートやアーティストたちは、かつては強力だったフランスの影響力を少し過大評価しているように見えます。それについては様々な説明ができます。幸いなことですが、文化と芸術の世界では文化的な中心が移動し、分裂したのです。そして世界の色々なところでアーティストになり、創作をすることができるようになりました。数十年前、または数世紀前には、文化的な中心は世界のいくつかの場所にあり、それを特定することができたのですが、いまではそれが世界中により漠然と広がっています。それはむしろいいとことだと思います。また、フランス文化はほかの文化と同様に、一種の言語的な圧縮を受けています。つまり、英語という支配的な言語の伝播を見ると、言語の普及とともに文化も普及しています。これが現状です。
しかし、果たしてそれは問題であり、闘うべきなのかどうか。フランスは、文化を自由貿易の対象にしないという「文化特例」を提唱してきました。それはまさに、あまりにも大規模なアングロ・サクソンの侵入に抵抗するためでした。先ほど述べたように、他者の文化を受け入れつつ、文化やアイデンティティが生き延びられる、存在を続けられるようにするのは良いことだと私は考えています。
私は、自分の国が翻訳大国であることを喜ばしく、また誇らしく思っています。フランスは外国文学の翻訳を大量に出版しています。また、沢山の外国映画を上映しています。フランスにいながら、日本、韓国、南アフリカ、コロンビアなどの作品に触れて、自分を豊かにすることができる。選択の幅が広く、世界中の様々な声を聞くことができるのです。アングロ・サクソンの国々ではそうではなく、外国の声はなかなか届きません。このようにフランスが他者を受け入れている点での活力を讃えるべきでしょう。
今日、日仏学院に集っていることも幸運だと思います。フランスは世界中にこのようなフランス文化センターやアリアンス・フランセーズのネットワークを広げています。しかし危険があります。フランス政府が、「それはいいことだが、あまりにもコストがかかり、たいして効果がない。予算を削減しよう。文化センターを閉鎖しよう。」という危険です。逆に、より多くの人を迎え、派手に勧誘をするのではなくフランス文化を伝達しようと努力しているそれらの文化センターにさらに予算を与えるべきです。またフランス文化をより活力あふれ、魅力的なものにするために、交換留学制度や、アーティスト・イン・レジデンスの受け入れも強化すべきでしょう。アーティスト・イン・レジデンス制度はフランスではまだ十分ではないと思います。すべての分野のより多くの芸術家を短期・中期の滞在で受け入れることが必要でしょう。そうすることによって受け入れ側のフランス文化も、フランスに来る外国人芸術家の自国の文化も、双方がほんとうに豊かになるだろうからです。
高橋:これからもフィリップ・クローデルさんがいい小説、作品をお書きになって、しかも出来ましたら第二作目の映画をまた作って頂きたいと思います。クローデルさんに盛大な拍手を。

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