OUTSIDE IN TOKYO
FILM REVIEW

『落下の解剖学』



上原輝樹

“最も高貴な愛を君に捧げた だが愛は勝利の行進ではない”

レナード・コーエン

映画は、階段から落下してくるボールを愛犬メッシが咥える姿を捉えるショットから始まり、ザンドラ・ヒュラー演じる主人公サンドラが、魅力的な声の持ち主である女性インタヴュアーと会話する場面へと連なっていく。この場面では、インタヴュアーが学生であること、彼女の質問によって、サンドラが自らの実体験に着想を得て書く小説家であることが明かされていくが、赤ワインを飲みながら、女子学生との会話を愉しむサンドラの嬉々とした表情が確かに捉えられており、後に展開することになる法廷劇で重要な焦点となる、彼女が人々に与えるであろう印象を醸成する巧みな導入となっている。映画は、この後、150分間に亘って続いていくが、風景明媚なフレンチ・アルプルを舞台にしているにもかかわらず、エスタブリッシュメント・ショットすら冒頭に置く時間的余裕はないのだと言わんばかりに、物語の主題に無駄のない散文的な明晰さで切り込んでいく。

二人の女性が親密になる可能性を予感させる時間は、夫のサミュエル(サミュエル・タイス)が爆音で鳴らし始めた、南国のスティール・ドラムと哀愁を帯びたメロディが印象的な音楽に遮られ、インタヴューは中止を余儀なくされる。別の機会に改めて、と約束を交わした後、女子学生は山荘を去り、息子のダニエル(ミロ・マシャド・グラネール)が愛犬メッシに導かれて、雪の山道を散歩に出掛ける。やがて、山荘に戻ったダニエルが出会したのは、雪の路面に血塗れで倒れている変わり果てた父親の姿だった。遺体の第一発見者は、メッシとダニエルであり、ダニエルの叫び声を聞きつけて山荘から出て来たサンドラが警察に通報し、警察による綿密な状況検分が行われていく。明らかなのは、サミュエルが山荘の最上階から落下して死に至ったということだけである。それが事故だったのか、自殺、もしくは他殺だったのか、真相を知るのは亡くなったサミュエルだけだ。あるいは、妻のサンドラが何らかの形で関わっているのだろうか。疑いは次第にサンドラへと向けられていき、彼女は自らの潔癖を証明すべく、法廷での証言を余儀なくされていく。やがて法廷は、衆人環視の下、夫の死に何らかの関わりを持つ“疑わしい女性小説家”を裁く劇場へと変貌を遂げていく。



サンドラは、旧知の仲である弁護士のヴァンサン(スワン・ アルロー)に連絡を取り、弁護を依頼するが、この二人の関係性も、一言では言い表せない微妙な間柄にあることが、繊細な演出で描かれていく。ジュスティーヌ・トリエ監督は、SIGHT AND SOUND誌のHannah McGillによるインタヴュー記事で、主に影響を受けた作品として3つの作品を挙げている(※)。一つは、リチャード・フライシャーの『強迫/ロープ殺人事件』(1958)。トリエは、オーソン・ウエルズが演じた弁護士が、威風堂々と論戦を繰り広げる、広く知られたウエルズ像ではなく、ボソボソと抑揚を欠いた調子で話す、意表を突いた人物造形であることに触発されて、この映画の弁護士も紋切り型とは異なる俳優を起用したいと思い、マッチョなイメージとは程遠いスワン・ アルローをキャスティングしたと語っている。冒頭の長身の女子学生同様、クィアネスを意識したキャスティングが功を奏している。

ジュスティーヌ・トリエが2つ目に挙げたアンリ=ジョルジュ・クルーゾーの『真実』(1960)は、ブリジット・バルドーが、かつての恋人を誤って射殺してしまう娼婦ドミニクを演じる法廷劇だが、彼女が故意に殺したのか否かということより、彼女が完璧な体つきに恵まれたブロンド女性であり、自由な精神の持ち主であること、そのこと自体が衆人の好奇の目によって裁かれる不条理を描いた作品である。『落下の解剖学』においては、成功している小説家、性に奔放な女性であるサンドラの身に、その不条理が降りかかってくる。トリエは、「若い頃は、法廷とは真実を明らかにする場であると思っていました。しかし、今は、法廷とは2つの平行線を辿る物語が語られる場であり、重要なのは真実そのものではないということです」と語る。法廷では、真実を明らかにするために、ありとあらゆる秘密は白日の下に晒され、“私”にとっての真実も赤の他人の言葉によって歪められていく。本作において最も甚だしく、恥知らずに自説を展開することで悦に入る検事役を演じるアントワーヌ・レナルツの風貌は、凡そ法廷では見かけることのないストリートスマートのそれであり、フランスの職能主義に基づいたリベラリズムが行き渡った裁判制度を見事にカリカチュアした配役である。



トリエが3つ目に挙げた、ジェームズ・スチュワートがジャズ好きの田舎弁護士を演じる、オットー・プレミンジャーの『或る殺人』(1959)について、彼女はこの記事の中で特に具体的な影響を語ってはいない。しかし、リー・レミックが演じる“誤解されやすい妻”が殺人を犯した夫(ベン・ギャザラ)の弁護のために証言台に立たされるのだから、その内容の近親性は明らかだろう。邦題よりも、“Anatomy of a Murder”という原題の方がより親しみを感じる者にとってみれば、『落下の解剖学』の“Anatomy of a Fall”というタイトルそれ自体と、ソール・バスの秀逸なグラフィック・デザインが与える印象の影響は更に大きかったのではないかと想像したくなる。まだ無名だったソール・バスを発見して自らの作品のタイトルデザインに重用したプレミンジャーの慧眼は既に知られている通りだが、ソール・バスが創造したこの映画のヴィジュアル・アイデンティティは、サミュエルが雪の上に横たわる『落下の解剖学』のキー・ビジュアルの発想源になっているように思える。『或る殺人』のスコアを手掛けたデューク・エリントンには、劇中でもジェームズ・スチュワートとピアノの連弾に興じる場面まで用意されているが、この映画のサウンドトラック・アルバムのジャケットで、“Anatomy of a Murder”という字面を見慣れている方も少なくないはずだ。また、『或る殺人』では、リー・レミックが、愛犬に“ビールを飲ませて眠らせる”という芸を披露してみせたが、『落下の解剖学』では、ダニエルが愛犬メッシを誤って“眠らせてしまう”という事態が発生する。なかなか“ブラックユーモア”の利いたパスティーシュである。



『落下の解剖学』の背景にはこうした往年の名作の存在があるが、ほぼ同時期に同じフランス資本で製作された映画『サント・メール ある被告』(2022)のことを想起せずにいることは難しい。『サント・メール ある被告』は、幼い娘を自らの手で殺め法廷で裁かれた、セネガルからフランスに留学して哲学者になる夢を抱いていた女性ファビエンヌ・カブーが実際に体験した裁判の記録をそのまま劇中で再現するという手法で作られた作品である。『サント・メール ある被告』においては、主人公の女性ロランス(圧倒的存在感を放つガスラジー・マランダが演じている)が、実際に娘を殺めたのか否かが争われるわけではなく、“なぜ我が子を殺めたのか”を明らかにすることがすべてである。その過程で、セネガル系フランス人であるアリス・ディオップ監督が炙り出すのは、裁く側が依って立つ根拠の危うさであり、フランスという国家において、男性たちが主体となって築き上げてきた、異教的なもの、不可視なもの、不合理なものを裁き、罪を創り出すように“全てが仕組まれている”制度の理不尽さである。つまり、彼女の出自、人種、性別が、フランス社会において、どれほど不利に働いたかを、ファビエンヌ・カブーの文学的ともいうべき言葉使いをそのまま劇中で使うことで、“なぜ、私がこのようなことをしてしまったのか、むしろ私自身が知りたい”と語った彼女の魂の言葉に呼応して作られた作品だと言える。『サント・メール ある被告』で、女性弁護士が被告人のロランスに述べる、「一度、子を授かった母親の体内には子供の細胞が残り、母親は“キメラ(合成生物)”となって、その後の人生を生きていく」という言葉が忘れ難い。一度母になったものが、子を失うことは一生ない、ということが科学的根拠の下に語られる時、全ての母親は祝福されている。



『サント・メール ある被告』は、予想だにしない回路を経て崇高な瞬間に至る詩的な法廷劇の傑作だが、『落下の解剖学』は、通俗的とも言うべき夫婦の転落劇を白日の下に晒し、驚くべき明晰さと説得力で複雑な関係性の変化を“解剖”して見せるが、そこに“勝者”はいない。『サント・メール ある被告』にあったマジカルな高みに到達する特別な瞬間もない。しかし、日々の生命の営みとは、有機的であると同時に、実にオートマティックなものであって、日頃、無意識の内に活動している人体の働きを敢えて科学的に分析して見れば、その緻密さと複雑な仕組みに驚かされてしまうように、『落下の解剖学』は、生命の働きをAIでシミュレートしたような卓越した聡明さで、他人には知る由もない夫婦関係の死をフィルムに焼き付けて見せる。これがどういうわけか滅法面白い。この面白さの最大の責任を負うべきなのは、主演を演じたザンドラ・ヒュラーなのか、あるいは、脚本家なのか、判断の尽きかねるところだが、ジュスティーヌ・トリエと共に脚本を担い、彼女の実生活上のパートナーでもある脚本家、監督、俳優として知られるアルチュール・アラリの責任は免れようのないものだろう。これ程までに精緻な脚本を仕上げるのは、共に書き手であるパートナーの存在があることが大きな助けとなったであろうことは想像に難くない。フランス大統領選挙で盛り上がる大群衆の最中に痴話喧嘩で大暴れするカップルを投げ入れた『ソルフェリーノの戦い』(2013)で騒然と長編映画デヴューを飾った後も、人気絶頂のヴィルジニー・エフィラが仕事、家庭、恋愛、全ての領域でトラブルに直面して悪戦苦闘する弁護士を演じる『ヴィクトリア』(2016)と、一貫して“抵抗”の精神と姿勢を血気盛んに作品に注入してきたジュスティーヌ・トリエ、面目躍如の傑作である。やはり、血の気の多い人間が作る映画は面白い。






『落下の解剖学』
英題:Anatomy of a Fall

2024年2月23日より公開

監督・脚本:ジュスティーヌ・トリエ
脚本:アルチュール・アラリ
製作:マリー=アンジュ・ルシアーニ、ダヴィド・ティオン
撮影:シモン・ボーフィス
美術:エマニュエル・デュプレ
衣装:イザベル・パネッティエ
編集:ロラン・セネシャル
出演:ザンドラ・ヒュラー、スワン・アルロー、ミロ・マシャド・グラネール、アントワーヌ・レナルツ、サミュエル・タイス、ジェニー・ベス、サーディア・ベンタイブ、カミーユ・ラザフォード、アン・ロトジェ、ソフィ・フィリエール

2023年/フランス/カラー/ビスタ/5.1chデジタル/152分
配給:ギャガ

『落下の解剖学』
オフィシャルサイト
https://gaga.ne.jp/anatomy/















































































※ SIGHT AND SOUND DECEMBER 2023 “Court Marital” by Hannah McGill
ジュスティーヌ・トリエは、記事で以下の3作品を影響受けた映画として挙げている。
リチャード・フライシャー『強迫/ロープ殺人事件』
アンリ=ジョルジュ・クルーゾー『真実』
オットー・プレミンジャー『或る殺人』