OUTSIDE IN TOKYO
Aktan Arym Kubat INTERVIEW

アクタン・アリム・クバト『明りを灯す人』インタヴュー

2. アーティストとしてではなく、世界に不可欠な1人の人間としての立ち位置で表現したい

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OIT:主人公には娘がいますが、息子が欲しいと激しく嘆きます。この嘆きはこの主人公に特有のものでしょうか?それとも、男性の子孫がキルギスの社会的にも待望されていることの現れなのでしょうか?
AAK:国籍に偏らず男親は総じて男子の誕生を望むものでしょう。私はそう思います。明り屋さんは、私が知る息子を切望する多くの家族の集合的なイメージです。普段の生活で、このような話はしないかもしれません、あったとしても軽く話す程度でしょう。でも飲みの席になると、明り屋さんとマンスールのシーンのように、少し感情的になるものです。この傾向はアジアにおいて、より顕著なのかもしれません。男子が家を継ぐ伝統のあるキルギスでは特に。もし男の子が跡継ぎにいなければ家は途絶える。だから、その表現は様々でしょうが、皆が男の子を望むのだとおもいます。

OIT:この映画は、ポスト帝国主義、グローバリゼーションの現代における、絶望と希望の両方を提示していると感じました。とりわけ、日本では震災以降、エネルギー問題が最大の社会的関心事のひとつなわけですが、原発産業に依存する産業構造が出来上がってしまっている日本において、自然エネルギーへの転換は容易なものではありません。一方、キルギスでは、映画で希望が示されているとおり、地方で自然エネルギーの開発が進むという気運が生まれているのでしょうか?
AAK:残念ですが、答えはNoです。そもそもキルギスにはグリーンエナジーそのものの理解がない。キルギス人は昔からある方法で電気をつくっています。河川には水力発電所が幾つかありますし。しかし私たちが住んでいるのは山岳国、それも地震帯に属しますから、大地震が起こった暁にはこのシステムは破壊されフェルガナ盆地は水に沈むでしょうね。先を読んで、災害後のことはもちろん、自然を制圧できたとしても、それでも災害はいつなんどき起こりえることを常に念頭におかなければならない。フィルムではキルギスの慣習とは別の考えを試しています。明り屋さんは低い電気代でまかなえる明りを試みるだけでなく、むしろ明りをつける新しい方法を模索しているのです。

OIT:監督は”政治”に対して、どのような距離感をお持ちですか?例えば、この映画は、政治的な映画と言えるでしょうか?
AAK:『明りを灯す人』は、政治的な映画ではありません。むしろ私の他の作品同様、人生についての映画です。しかし残念ながら今日のキルギスはすっかり政治色の濃い国になってしまった。政治は生活に避けては通れないものとなり、しかも政治家の生業は私の立場からはほど遠い。キルギスでは政治や政府の活動はビジネスとなり、政治家は誰しも私欲を追い求め、政治力は裕福さとなった。将来何が起こるかわかりません。あるいは、これはどの国家も通る道なのかもしれない。他国の歴史を知っていても避けては通れない種類のね。ある国が設立されるまでの段階で起きた間違いを、そっくり繰り返さなければ国というのは設立できない運命なのかもしれない。歴史を織りなしてきた過去の間違いに改めて取り組んでいるなんて、情けないですね。

OIT:美しいロケーションについて。このロケーションは、セット美術から映画のキャリアをスタートさせた監督の審美眼で厳選されたのでしょうか?
AAK:撮影場所にはいつも重きを置いています。撮影場所と配役はどちらも慎重に決めるに超したことはないですから。地球には、スクリーンから感じられる程の、独自のパワーがあります。『明りを灯す人』でもそのセオリーに則ってロケーションを選びました。交差点の使用は多かったです。Kok-Moinok村は、私の最初の映画『ブランコ』を撮った場所です。明り屋さんは10歳の主人公Selkinchekが歳をとった設定にする話合いもクルーの間で重ねました。文字通り、見てとれる情報の層を厚くすることで映像を豊かにする努力もしました。いうまでもなく風も大きな役割を果たしています。当然ながらロケハンは私だけではなく、ハッサン・キディラリエフ(撮影監督)とタルガット・アシランクロフ(美術)と共に決めました。ロケーションは単に撮影した場所というだけではなく、空間や雰囲気として俳優同様に映像を引き立てる要素なのです。

OIT:「コク・ボル」という競技のシーンもそうですが、騎馬シーンがとても躍動感のあるものに仕上がっています。こうしたアクションシーンの撮影は、監督が最も得意とするもののひとつなのでしょうか?
AAK:ダイナミックなシーンが得意だとは思ったこともありません。でもこのシーンはダイナミックに撮るべきものでした。よくあるように、故意にプログラムされ、一定のリズムを刻む映像は好みません。人生のように構築された映像を観たい。どうしてでしょうね。人生はかくあるべきという私の考え方です。ダイナミックな出来事もあれば、ゆっくりで静止した活動もある。俳優も同じです。笑うものもあれば、泣くものもあり、よりダイナミックなものもあれば、全くそうじゃないものもある。ダイナミックな振り幅が欲しいということなのでしょう。たまに、いわゆるアクション映画を撮るのはどうかと思う事もありますが、それが必要か、またやるべきかどうかを考えあぐねているところです。

OIT:監督の描いたストーリーボードを写真で拝見しましたが、詩情溢れる素晴らしいものでした。『明りを灯す人』は豊かな詩情が溢れる映画ですが、その”詩”は、創作のどの段階で生まれるものでしょうか?
AAK:私をして、日常を詩情化する男、と書く映画批評家もいます。確かに、私は単純な日常生活が大好きです。そこにあるのに人の目に留まることのない美しいものや、アートになりうるものに光を当てたい。人が将来の展望を築くのに夢中で目を向けないものにね。私はそういうものに気がつき、観察し、観て感じる種類の人間です。それが私の映画の一部になっていて、見過ごされるものを映しだせていると評価してくれる人が多くいるのです。どの程度の感覚があるのかを実際に説明できませんが、アーティストとしてではなく、世界に不可欠な1人の人間としての立ち位置で表現したい。撮影時は感覚も研ぎすまされまれ、私が感じ、理解したものがフレームの一つひとつに映し出されます。形がないものでも、映像がスクリーンに投影された瞬間に注意を向けられる対象になるのです。そういうものに重きを置くように留意していますね。


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