OUTSIDE IN TOKYO
Apichatpong Weerasethakul INTERVIEW

アピチャッポン・ウィーラセタクン『光りの墓』インタヴュー

2. 様々なリアリティの層、位相を組み合わせて構成している映画

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OIT:映画の中で、病院の下には王達の墓があって、今も王達は戦っていて兵士が精気を吸い取られているという話がありましたけれども、これは今のタイの現状や世界の政治の現状に対する批判が込められているのでしょうか?
アピチャッポン・ウィーラセタクン:必ずしもそうではないですね、私は決して政治的な映像作家ではないと思っていますので。現在の政治的ないろいろな揉め事というのは、真実を知る不可能性ということを映し出している現実じゃないかと思うんですね。それに対してこの地下での戦い、戦争というものは、私が観客とそれから登場人物たちに与えている一つのイマジネーション、想像の産物だと思います。この映画の後半に入ると公園を歩きますよね、そして、その宮殿の中で戦いがない宮殿というところを歩き回るシーンがある、それも全て私達観客の頭の中のイメージとして屹立してくるわけなんです。だからこの映画は様々なリアリティの層、位相を組み合わせて構成している映画だという風に言えると思います。広く言えば確かに今のタイの状況についての言及はあるかもしれませんけれども、それは必ずしも政治ではなくて、例えば秩序のあり方、あるいは現状認識のあり方についての批評と言えるかもしれません。

OIT:今、かつての王宮があった場所の森の話が出たので、それについて聞きたいのですが、木に色々な言葉が貼付けてありました、あれは何だったのでしょう?
アピチャッポン・ウィーラセタクン:この王宮の言葉ということなんですけれども、この映画全体がこのような格言がいたるところにあるという作り込みをしています。たくさんの学校をロケハンしましたけれども、あえてこの学校を選んだのは、例えば黒板や壁にこうあるべきだという格言が張り巡らされている、自分が育ってきた子供時代を思い出したからなんです。そのことを映画の中に取り込むことによって如何にタイが、これほどまでに道徳に取り憑かれてしまっている国になってしまったか、少なくとも表面的には道徳的な国だと言われているようになっているわけなんですけど、その理由を描くことが出来るんじゃないかと思ったんです。寺院でもこうした格言は張り巡らされています。私達の暮らしてきたランドスケープを映し出すような、格言に覆いつくされている良き人間、良き市民であるにはこうすべきであるっていう倫理的な押し付けがましさを描きたかったんです。でも同時にくすりと笑わせてくれるような、おかしなものも見受けたりすることがありまして、それは地元の伝統的な知恵であったり哲学みたいなものに想いを巡らせることもあるわけですね。

OIT:体操している人達や、メディテーションについてのレクチャーといったものも、両義的に捉えているということでしょうか?
アピチャッポン・ウィーラセタクン:私は両親の仕事の関係で医療機関、病院で育ったものですから、私を含む、人々が健康になりたいという気持ちを持って行動をとっているということの現れなのです。しかもグループで体操したり、心の健康に気をつけて仏教に救いを求めたりすることがあるわけですが、そうした行動は全てとてもコレクティブな行動で、集団で行われる体操などはまさに国中が、ある種軍事的とも言うべき雰囲気の中、ユニホームを着て一同で運動に邁進しているということを描いています。

OIT:メディテーションのレクチャーなんかはすごくいいなと思って、僕もどこかで習いたいなと思ったくらいなんですが。
アピチャッポン・ウィーラセタクン:この映画は観客を催眠術にかけるというような方法をとっているわけなんですけれども、メディテーションというのも自分自身に催眠術をかけるというようなものじゃないでしょうか。

OIT:先程、この映画には光のレイヤーがあるというお話がありましたが、映画のテーマにも様々なレイヤーがありますね。その一つがサイエンスフィクション的なもので、そのためにカラックスの『ホーリー・モーターズ』(12)という映画を思い出したりしたのですが、カラックスは“SFには現実とは何か”という問いかけが必ず入っていると言っています。アピチャッポン監督はサイエンスフィクションをどういうものと考えているのか、お話し頂いてもいいですか?
アピチャッポン・ウィーラセタクン:この映画は現実のレイヤー、それから存在のレイヤーを描いているんじゃないかと思います。当然、それは“時間”にも関係してくると思いますから、“時間”についての映画にもなりますよね。例えば地下の戦いのシーンとか、あるいは夢の時間って何だろうかとか、それから異なるリアリティを併置していくということ、これらはサイエンスフィクションでよく登場するテーマであったり、エレメンツだったりしますので、サイエンスフィクション的であるという見方に一致しているんじゃないかと思います。それからキャラクターが同時多発するというか、違う時間が同時に存在するというようなことも、この映画の中に取り込もうとしています。例えば『ブンミおじさんの森』のラストシーンを思い浮かべると、登場人物が同時にあちこちに現れている、そういうようなことにも連動してくるのかもしれません。


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