OUTSIDE IN TOKYO
Fatih Akin INTERVIEW

ファティ・アキン『ソウル・キッチン』インタビュー

2. 映画は常に人生を代弁するものでなければならないと思う

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OIT:DJ Superdjango(スーパージャンゴ)というDJ名もお持ちで、クラブでもエンジョイしながら、音楽にも精通されていると思いますが、今回の映画に自分がどこか投影されているのですか?そしてこの映画の音楽についてはどこまでコメントしましたか?
FA:アダム・ブースドゥーコス、彼はジノス役の俳優ですが、このキャラクターを本当の意味で作ったのは彼なんです。アダムは10年ほど自分のレストランを持っていたわけだけど、自分を演じているわけでもない。でも演じながらも、そういう知識はあった。レストランの運営の仕方も知っていたし。でも彼の役柄の解釈について考えたりしていて、演技の時に「君はそこで一体何をやっているんだい」と聞くと、彼は「俺はあんたの真似をしてるんだ」と言った。最初に僕ら2人が同意していたのは、レストランの世界と映画の世界がとても共通項が多いということだった。それにレストランのオーナーは、プロデューサーや監督のようでもある。そして彼は実際にオーナーであったわけだし。僕はそこまでの忍耐力はないんだけど。彼はそんな僕の人格を役柄に投影していたんだ。僕はギックリ腰になったことがある。それは自伝的だ(笑)。そして主人公が映画の中で治療したようなやり方で治した。僕もブードゥー的な呪術師のような骨接ぎの男の元に行ったんだ。そして彼は僕、というか僕の腰を救ってくれた。

OIT:それで治ったんですか?
FA:そう、治ったんだ(笑)。そういう個人的/自伝的な要素を入れるのは好きなんだ。あと、音楽に関してだけど、映画の中の8、9割方の曲は僕が選んだ。でもそれは映画作家が好きな音楽を集めたという感じではない。僕の音楽のテイストは幅が広い。自分の気分にもよるけど、ほぼ何でも聴く。ソウル・ミュージックも好きだし、リズム&ブルースも好きだけど、それがこの映画のトーンやムードに合うと思ったからだ。もちろん、怒りに満ちた映画ではないから、怒りに満ちた音楽は選んでない。『愛より強く』は怒りに満ちた映画だったから、怒りに満ちた音楽を選んだ。パンクもよく聴いていた。その頃はそういう気分だったから。もちろん、まだパンクは聴くけど、また怒れる映画を作れば、間違いなく怒れる音楽が入るだろうね。でも今回はとてもリズム&ブルースとソウル・ミュージックが合うと思ったし、映画がそれを求めていたんだ。

OIT:ドイツのナイトクラブで音楽をかけていたんですよね?
FA:DJとしてかい?そうだね。でももうやってないよ。昔はやってたけど。作業部屋にターンテーブルが2台あった。でもオフィスを模様替えしたくて、前のように2台のターンテーブルを並べているといつも練習してしまうから、もう1台を居間に置くことにしたんだ。もうDJはやらないことにしたから。でもうちの奥さんが、ダメ!もう1台を居間に置かないでと言ったんだ。またやりたくなるかもしれないでしょって。彼女は賢い女性で、僕よりずっとよく分かってる。だから最近は練習してないよ。特にターンテーブル2台を使うことはない。今はいいプログラムやソフトウェアがたくさんあるから、レコードを全部持ち歩く必要もなくなった。だからギックリ腰になったんだ(笑)。運ぶのは大変だ。もう二度とあの骨接ぎに行きたくないからね。

OIT:では三部作の話に戻るけど、その三部作の最後の部分について色々なことを考え直す時間ができたわけだよね。その三部作の最後は実際、今はどう作業しているのですか?
FA:今は脚本を書いているよ。作る映画に全ての経験が活かされる。人生、友情、技術とか、経験は最良のものだ。そしてこの映画でもたくさんいい経験をすることができた。技術的にも、以前使っていたものと違う経験ができた。また、別の修辞的な言語があるため、違う試行錯誤を試すこともできた。シリアスな映画と比べたらね。でも、今やっていることは、またそのシリアスな状況のものを書いている。その次の映画に使えるものが色々勉強できた。もちろん、全然違うものになることは分かっているんだけどね。

OIT:おかげでそのテーマを扱う感受性が高まった、とも言えますか?例えばマイナスとマイナスでプラスになるように、より入りこめるようになったということは?
FA:今やっているのはとても大きな予算の映画だけど、『ソウル・キッチン』も、ある意味、わりと大きな予算だった。その時点では。でも次はこの映画の予算の3倍になる。時代ものだしね。たくさんエキストラも誘導しなければいけなかったし、たくさんの照明の問題にも対処しなければならないし、キャラクターもたくさんある。それは全ての映画と同じやり方ではあるんだけど、テーマという意味では大きく異なる。大きく違うものだ。次の映画はシリアスなものだけど、その中でも、ここそこにユーモアがなければだめなんだ。すごく暗い映画でもね。暗いだけの映画もあっていいとは思う。格式ばっていてもいい。でも、それでは人の人生を代弁していないと思う。僕は、映画は常に人生を代弁するものでなければならないと思う。僕は所々にユーモアを取り入れた方が、よりドラマを引き出すことができると思う。観客が笑えば、魂/心が開かれる。そして心が開かれれば、そこで僕はナイフを使って、より深いところで魂を打つことができる(笑)。



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