OUTSIDE IN TOKYO
Hilla Medalia INTERVIEW

ヒラ・メダリア『キャノンフィルムズ 爆走風雲録』インタヴュー

3. 彼が亡くなった時、机の上には完成した26本の長編映画の脚本が並べられていた

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OIT:この映画の中でロジャー・イーバートらの映画評論家が、キャノンフィルムズは名作をひとつも残していない、単なる映画売買の交渉のプロの過ぎないと批判したために、メナヘムはアートフィルムをプロデュースして、アカデミー賞を獲ろうとしたというストーリーが描かれていましたが、それは既に有名な話なのか、あるいは監督が行ったリサーチから描かれた筋書きなのかを教えて頂けますか?
ヒラ・メダリア:アカデミー賞を一度も獲っていないというのは、メナヘムにまつわる話では最も有名なもののひとつで、イスラエルの有名な俳優は、たとえメナヘムが墓の中にいたとしても、アカデミー賞を受賞したぞ!と言われれば、きっと墓の中から生き返ってくるだろうと言ったものです。それ程彼はアカデミー賞を欲しがっていた。ノミネートは4回されているのですが、一度も受賞したことがないんです。やはり彼の成功というのは、低予算でB級映画を大量に作ったことにあって、アート系の映画を作り始めた途端に予算が1本2000万ドルとかに膨れ上がり、それを回収できずに経営が悪化していった。ただ彼は常に作品の質を批判されてきたので、それを見返したくてアート系の映画を作り続けた。彼にとって観客は神様であり続けたけれども、批評家の言葉には傷ついていたのです。

OIT:メナヘム自身は、監督が考えるところでは、プロデューサー業と監督業ではどちらによりアイデンティファイしていたと思いますか?
ヒラ・メダリア:とても良い質問ですね。やはり監督の方により情熱を傾けていたと思います。私は彼のことを“シネマニア”と呼んでましたが、“映画作り”に完全に恋していました。もちろんプロデュースをする時も、彼はクリエイティブな関わり方をしていましたからプロデュース業も好きだったとは思います、ただ脚本を書くこと、監督をすることに全霊を捧げていたと思います。今から丁度1年前の彼が亡くなった時、机の上には完成した26本の長編映画の脚本が並べられていたのです。それは、人によっては一生を掛けても書けるわけではないほどの量です。彼は本当にずっと映画を作り続けたかったのですね。

OIT:最後にちょっと教えて下さい。映画の最後のシーンで、この映画がアカデミー賞を獲るべきだったと、メナヘムが言いますね。あれはどの作品だったのでしょう?
ヒラ・メダリア:『サンダーボルト救出作戦』(77)です。

OIT:イスラエル時代の作品ですね。
ヒラ・メダリア:『サンダーボルト救出作戦』は実はアメリカにいた時に作ったものです。私もアメリカに14年間住んでHBOでも作品を作って放送されたりしているのですが、イスラエルでは必ず“イスラエル映画”って言われてしまうんです。なぜかそういう風潮があるんですね。キャノンフィルムズも、彼ら二人が実際にアメリカに住んで活動していた時でも、スタッフを全部連れて行ってイスラエルで撮影をしたり、もしくは『ブレイクダンス』(84)のようにアメリカで撮る時にイスラエルから監督(ジョエル・シルバーグ)を呼んだりして、母国と繋がっていた部分があります。イスラエルでは、ナタリー・ポートマンもイスラエル人と見なされていますから。

OIT:彼女はアモス・ギタイの作品(『フリー・ゾーン』05)にも出ていましたね。
ヒラ・メダリア:そうです。彼女は確かにイスラエル出身ですが、随分若い時にイスラエルを去っているんです。今年のカンヌで、ナタリー・ポートマンが自ら主演して長編監督デヴューを果たした作品がプレミア上映されました。それは、著名な作家エイモス・オズのヘブライ語の原作小説を英語に翻訳した『A Tale of Love and Darkness』(15)という作品で、その翻訳は私が行ったのですが、その作品も“イスラエル映画”ということになっています。イスラエル人は何でも自分たちの“誇り”にしてしまうんですよね(笑)。最後にひとつ彼らしいエピソードがあるのでお伝えします。メナヘムに、あなたの最高傑作はどの作品ですか?と訊いたのです。すると彼は、次の作品さ、としか答えてくれませんでした。彼の最も好きな作品は何なのかを知りたかったので、それから何度も同じ質問をぶつけてみたのですが、答えはいつも、次の作品さ、でした。

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