OUTSIDE IN TOKYO
JERZY SKOLIMOWSKI INTERVIEW

イエジー・スコリモフスキ:オン『アンナと過ごした4日間』

2. 映画作りは自転車に乗るようなもの、一度覚えたら二度と忘れることはない

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一時は映画から手を引き、絵画の世界に踏み込んだ時、当時の映画界に不満を感じていたと以前も発言しています。しばらく映画から離れた後、映画作りへの情熱はどう取り戻したのですか?
そう、どれだけ自分でコントロールできるかの問題だった。私を映画作りから遠ざけたのは、17年前に最後の映画を撮った時、どういうわけか、堕落させられた。義務を果たさねばならないという理由から。映画に金を注ぎ込んだ者たちがいて、ある役者たちを使いたがり、私は“商品”を作るように圧力をかけられた。もはや自分の作品ではなく、単なる商品と化していた。今はそうした商品は“ユーロプリン”(各国の出資が混在する最近の製作事情)と呼ぶ(笑)。あの時はフランスとの共同製作で、イギリス人俳優、複数のフランス人女優、アメリカ人スター、有名なポーランド人作家の(ヴィトルド・)ゴンブロヴィッチと、様々な名が連なった。そして(溜息)、映画を気に入る人たちもいたが、私は好きになれなかった。自分がやりたかったものとは違うと感じた。それで映画作りから休みをとって、もう一度、自分の中のアーティストを見つけようと思った。そして絵筆をとり、駆け出しのアーティストになった(笑)。だがキャリアを築き始め、ペインティングで展覧会を開くようになった。とにかく日本以外では実現してきた(笑)。多くの絵画作品を売り、有名な人たちの手にも渡った。ジャック・ニコルソンは4枚所有しているし、デニス・ホッパーも3枚買ってくれた。そうして楽しめるようになった。幸せな時間だ。映画作りよりも、私にとってはよほど楽だ。朝の5時に起きなくてもいい(苦笑)。午後まで寝ていてもいいし、好きな時間に仕事すればいい。描きたくなければ、何週間も休筆したっていい。だからと言ってどうってことはない。そうして、長い休息を楽しんでいた。だが機会が訪れ、それを乗り越えたら、作りたいように映画を作ることができる。完全に自分がコントロールできる状態で。一切の妥協なく。そんな状況で映画が撮れる機会が訪れたんだ。

感覚が鈍ってしまったのではないかという不安はありませんでしたか?
それはないね。自転車に乗るようなものだ(笑)。一度覚えたら二度と忘れることはない。

脚本と監督の作業はどう違いますか?この映画ではどう作業していったのでしょう?
この映画は、状況に合わせて作り上げていった作品として完璧な例と言っていい。 ポーランドの行政、特にポーランド映画協会だが、比較的大きな予算を持つ、国家が運営する機関だ。そこは実際、ポーランドの全ての映画製作を支えていると言っていい。せめて予算の半分くらいまでは。そんな彼らからオファーが来て、頼むから祖国に戻って、これだけの資金を提供する、撮りたいように撮っていいと言われた時、私は分かった、やるよ、と言った。それで戻り、場所、予算に合わせて作っていった。リアルなストーリーでありながら、別の解釈では、形而上学的な、夢と考えられる可能性も持たせた。

でもハンティング・ロッジは登場しませんね?
そうだね。でもその周囲はだいたい使った。あるシーンはロッジから200メートル圏内で撮影された。男が森の中を走るシーンだ。家の窓から見える距離さ(笑)。

ある意味、理想的な環境ですね。
そうなんだ。だが映画作りに戻る以上は、そうした安心材料は必要だった。でないと、また戦争のような状況になる。闘っては妥協し、大勢の人に対処しなければならない。それはできる相談じゃなかった。ペインティングの方が平和で楽しい。そして今、再び平和な映画作りができるようになった(笑)。だからと言って、もう大きなプロダクションの映画を撮りたいとは思わない(深い溜息)。大スターと仕事するのは苦痛すぎる。神経をすり減らすことになるし、もうそんなことはやりたくない。

映像的な要素として、特にどう構成したいという意志はあったのですか?
まず、場所を特定されたくなかった。どの場所で起きているかを。ポーランドっぽくもしたくなかったし、普遍的な場所にしたかった。どこでもあり得るような。オランダでも、“チェコ・スロバキア“でもよかった。ヨーロッパの小さな町、大きめの村という普遍的な感じがほしかった。だから実際のポーランドを体現しているわけではない。実際の場所はマズーリアと呼ばれる地区だ。第二次世界大戦中はプロシアと呼ばれ、ドイツの一部だった。ドイツ的な要素を含む建築物に、ポーランド色も混ざっている。だが私はその片鱗を消していった。店の看板、通りの名前、車のナンバープレートに至るまで。ポーランド語を話す以外---それもとても少ないが---ヨーロッパのどこでもあり得る場所だ。だから美意識は、普遍的にすることを念頭に作っていった(笑)。

映像的な要素として、それをリアリズムと幻想と例えるなら、それもあなたの意図したものと見受けられます。シーンの構成法とか、切る場所が、解釈をオープンにするためのように見えます。
最終的に自分が達成したかったのは、完全にリアリスティックな物語として解釈するか、我がヒーローが監獄にいる間にナースのバラックが解体されかもしれないということ。ナースは別の場所へ移されたかもしれない。それもまたひとつ可能な解釈だ。もうひとつは全てが夢だったかもしれないという形而上学的な解釈。収監されている間に見た悪夢かもしれない。それを達成するため、私は撮影監督に、リアルに見せると同時にできるだけ曖昧にするよう指示した。だが同時に、それはわずかに歪曲された現実だ。長いテイクやトラッキング・ショットを使うことで、夢のような、私たちの望んでいた画が撮れた。

映画の音響はどう作り上げたのですか?
音響はこの映画の特に興味深い部分だ。台詞もわずかで、静寂の中で演技されなければならない事実。観客も、もう少し大きな音を立てれば女性が起きてしまう可能性のあることを意識しなければならず、そのためにも、音は最小限に留めなければならない。そのため、私は小さな音でそれを実行した。デリケートな作業だ。例えば、何頭もの犬が吠えている。それぞれが違い、近いものもあれば、少し離れたものも、もっと遠くのものもいる。タイミングも大事だ。私は起きることをテープに入れていた。足音が聞こえる時、縫い物の音が聞こえる時など、その場所に置いていった。犬はここへ置き、いや、もっとこっちかな、とか。全体の設定で意識したのが、あの小さくてキッチュな滝だ。その絵自体から音が出ていた。“シューー”って。そして小鳥が“チュンチュン”とさえずる声が。これはいいアイデアだと言った。そして小鳥のさえずりをもっと強くして、一羽毎の音を作っていった。そしてまた、鳥(の音)を場所に置いていった。だから本当にパッチングしていく感じだ。私はこの映画の音響をとても誇りに思っている。

最後のマーチングバンドの音で、主人公がまた病院に見に行こうとする、窓を超えようとする。そこでまた壁にぶち当たる。でも希望を促すかのようにマーチングの音が聞こえる。それは彼の希望を少し高めるためにあったのですか?
いや、私が達成したかったのは、二重の意味を持たせることだけだ。かたや現実的に、あの場所にナースたちがいたはずが、もういなくなっていた。それは時間が経過したからだ。我々は彼がどれくらい投獄されていたのか知らない。1年か2年か、とにかく分からない。その間、多くのことが変わった可能性がある。だからナースは他の場所へ移されたのかもしれないが、彼を驚かせるのは、そこにバラックがないこと。彼は再び、その壁に向かって歩いていく。だがその後彼がどうするのか我々には分からない。全てが彼の夢かもしれない。バラックなどそもそも存在せず、ナースもいなかった。彼が生み出したファンタズマゴリアだったのかも(笑)。

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