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KOMORI HARUKA & SEO NATSUMI INTERVIEW

小森はるか+瀬尾夏美『二重のまち/交代地のうたを編む』インタヴュー

3. 未来への不安が大きかった時期に、ちょっと先の未来への手がかり
 みたいなものを『二重のまち』が見せてくれた(小森)

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OIT:具体的に今回の作品について聞いていきたいと思います。私は、一昨年(2019年)の山形国際ドキュメンタリー映画祭で『二重のまち/交代地のうたを編む』を初めて拝見しまして、その時に、瀬尾さんの作品『二重のまち』を購入して読みました。これを書かれたのはいつぐらいですか?
瀬尾夏美:『二重のまち』を書いたのは2015年の11月かな、最初は水戸芸術館現代美術ギャラリーでの個展で発表したんです。
OIT:これを最初に書いた時は、今回の「交代地のプロジェクト」にまで発展することは想像されていなかったですよね。
瀬尾夏美:2013年にそれの前作となる『あのまち』という作品を書いていて、それも絵と文章をスライドプロジェクターで流す形態で発表していたんですが、それと対になるような形で『二重のまち』という未来の話を書こうという考えがありました。それと並行するようにして、『二重のまち』を書く前の2015年春に<民話の会>との出会いがあったんですね。それは宮城県を中心に活動する“民話採訪者”、民話の記録者の集まりで50年くらい活動しているサークルなんですが、その人達にお話を聞いてる時に、民話っていうものがあって、かつてずっと昔の誰かが体験したことを語り継いでいく営みの中で、様々なフィクションが生まれてくるんだという話を聞いたり、震災とか大きな災禍の後には必ず話の芽が生まれているはずだという話を彼女達がしていて、私はそのお話を書きたいという気持ちがあった。もちろん民話は口承伝承なので本当は口伝えであるが故の自由さがあるんですけど、まあ現代人なものでついパソコンで打ったりしていますが。ともかくそのお話の芽みたいなものを作れたらなと思って『二重のまち』を書いたんです。なので、書いた時点で既にそれを身体で使っていくイメージはあって、書いた後は結構色々な街で朗読会をやったり、神戸の人には関西の言葉で朗読してもらったり、展覧会の会場で「てつがくカフェ」をやったり、もちろん場所や身体が変わってもお話自体は変わらないんですが、そこに含まれる意味が変わってくるので、そうやって身体を通すっていう発想は書いた時点ではあったんですけど、それを色々試している内に「交代地のプロジェクト」の発想に至ったという感じです。
OIT:小森さんは瀬尾さんの『二重のまち』を読んで、どう思われましたか?
小森はるか:2015年の展示で初めて見た時に、凄いなぁと思いました。2031年の未来を想像するっていう発想が私には全然なかったし、高田の人達にもなかったと思うんです。未来っていうのが分からない風景の中で、そこへの不安が大きかった時期だと思うので、そういう時にちょっと先の未来への手がかりみたいなのを『二重のまち』が見せてくれたなと思って。その時もまず最初に、この物語を使って映像作品というか、何か映像の中にも落とし込めるものがあったらいいなぁということは漠然と思いました。でも具体的に『二重のまち』を使ってすぐに映画を作ろうとか、そういうことは特にしなかったんですけど、二人で一緒に巡回展をしていく中で、朗読を色々な人達にやってもらっていく積み重ねの中で、やっと映像制作っていう今回の企画のところに辿り着きました。
OIT:そのプロセスは、タネ屋の佐藤さん(『息の跡』2016年)とか阿部さん(『空に聞く』2018年)とか、他の方々の映像を撮っていくことと並行していたのでしょうか?
小森はるか:2015年の時点では、私は高田を離れていたので、佐藤さんと阿部さんの撮影も今までとは同じ距離感ではなくて、ある意味一区切りついたぐらいの時期ですね。『空に聞く』に関して言えば、阿部さんがラジオを離れてしまった時期と重なっています。ですから並行しているかというとちょっと違って、そのタイミングで私達も高田を離れて色々な地域を回っていく時期でした。

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