OUTSIDE IN TOKYO
michael winterbottom INTERVIEW

マイケル・ウィンターボトム『いとしきエブリデイ』オフィシャル・インタヴュー

3.『いとしきエヴリデイ』と『ひかりのまち』は対を成す家族の物語だ

1  |  2  |  3



Q:カメラは何台ですか?
MW:1台だけ。だからロングテイクの合間にどうするかを練る。どんなフィクション映画とも同じ方法論で、何度もやるしかない。前回は泣かなかったから今回は泣くべきとか。彼らは確かに演技していた。フィクションの自覚があったんだ。

Q:子供たちが悲しくなって現場を離れてしまうことは?
MW:それはないよ。だってそこは彼らの家だから出ていく場所がないんだ(笑)。

Q:ドキュメンタリーとフィクションの狭間という微妙な領域で物語を進めていくには?
MW:確かに僕の映画はよくその領域を歩いてきた。興味を引かれる点を説明することもできるけど、最終的に自分がそこに引き寄せられることに尽きる。フィクションと現実の狭間に遊ぶ場合、様々な効果がある。『イン・ディス・ワールド』でも実在する人物や事件に基づきながらフィクションだと観客に意識させる。ある時起きたことにフィクションの人物を挿入することで、全てをコントロールすることなく、いろんな立場から見てもらえる。それはずっと前からある方法だし、文学でも使われてきた。みんなも現実の生活とフィクションに基づいた別の自分で遊んでいる。何十億人がFacebookで自分の生活を切りとり、書き加えた生活を作っているように。

Q:そこでタイトルについて教えてください。
MW:元々7本の映画の仮題が『Seven Days』だった。異なる7つの物語で構成するつもりで。それが1本になり、『いとしきエヴリデイ』が物語の様々な要素を捉えていると思った。男は家族から一日一日と離れて生き、家族も父から一日一日と離れて生きる。これは時間の物語。長い時間と不在。でも映画では生活のディテールが描かれる。家族がどう生きていくか。どんな関係を作れるか。子供との生活で親密さは些細なディテールで分かる。毎朝子供たちを起こし、朝食を用意し、学校に行かせる。普段は映画で描かれない、消えてしまう些細な日常の繰り返し。5年の間、何度も刑務所に面会することで、小さな繰り返しから違いが現れる。子供たちの成長でディテールも変化する。父親が不在なため、学校に連れていくのも母親がこなす。そんな日々のディテールがこの映画を表している。

Q:マイケル・ナイマンとまた仕事することを選んだのですね。
MW:それは彼の音楽が好きだから。初めて仕事したのは11年前の『ひかりのまち』(99)でそのスコアが素晴らしかった。『いとしきエヴリデイ』と『ひかり~』は対を成す家族の物語だ。『ひかり~』は一週間の拡大家族だった。一緒に住んではいないが、三人姉妹と両親と、父と会わない弟の関係。一緒に住まなくても家族でいられるかどうか。『ひかり~』では息子が父に電話してメッセージを残す。父もメッセージを聞くことはない。でも互いに会わなくても愛情は分かる。10年を経た今作は真逆のアプローチかもしれない。両親と子供だけの小さな家族。それにローレンス・コリアも『ひかり~』の脚本家で、ジョンもシャーリーも出演していた。そんな繋がりからも彼に頼みたいと思った。『ひかり~』も『~エヴリデイ』も人々が困難な生活を送る。水面に顔を上げるだけで必死だ。時間を持て余して感情を垂れ流すでもなく、頭の中も容易に把握できない。だから口にしないことを表現する方法として音楽がある。『ひかり~』のスコアは彼らの欲望、夢、希望が人と同じくらい豊かで野心的だと代弁した。『~エヴリデイ』は刑務所にいる男に子供が4人いて、母親は子供を学校へやるのに必死で、父にも会いに行かせ、生活していく糧も見つけなければならない。でも彼らが参加したい世界が外にも存在する。ナイマンの音楽はそれを思い出させてくれる。

1  |  2  |  3