OUTSIDE IN TOKYO
MICHALE BOGANIM INTERVIEW

ミハル・ボガニム『故郷よ』インタヴュー

2. チェルノブイリに行ったのは、あの場所に魅了されたから。使命感があったわけではない

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OIT:このテーマを初長編に選んだ理由には使命感もあったのでしょうか。
MB:いえ、それはあまりなかったの。正直に言って、私は政治的な映画が作りたかったわけではないから。私が作りたかったのはとても人間的で、詩的な映画です。とてもむずかしいことだけど、声明のような映画にしたくなかった。人々の人生をただ描くこと。3人の登場人物による各々の物語が語られます。観客は彼ら(の物語)を追うことで、その内的な過去を体験する。彼らの人生がどう壊れてしまったかを見ることで彼らの人生が見えてくる。まず、ひとりの子供の父親であるエンジニアが登場します。そして(結婚したばかりの)アーニャも夫を亡くしてしまう。そこから惨事が彼らの内的な人生にどんな影響を与えたかを描きました。だから政治的な映画ではないのです。私は反原発を掲げるようなタイプではなかった。この映画はそういう目的で作ろうと思ったわけではないの。私が興味を覚えたのはもっと人間的な面。そこには大きな違いがあります。私とグリーンピースのようにね。

OIT:つまり、使命感ではなかったと。
MB:そうなの。フランスの公開時にグリーンピースとの討論会があったけど、彼らは人間的なリアリティーを理解していないと思ったわ。統計などに拘り、とても政治的だと思った。使命感は彼らのことね。彼らは政治的な使命で動いている。でも私は違う。もちろん彼らのやっていることはすばらしいと思うわ。ただ私のやりたいことではない。それに彼らは私の映画にそこまで興味がなさそうだった。彼らにとっては政治性が足りないの。たとえば、私の映画ではまだ制限区域内にいる人たちも見せている。(彼らいわく)まるでそこにいることがロマンチックであるかのように、なぜ区域内に留まる人たちを見せられるのかと。それが彼らの意にそぐわないの。彼らはとても理想主義だわ。そういう意味で私は違うタイプの人間だと思う。私は反原発の映画を作りたかったわけでなく、チェルノブイリに行ったのは(そもそも)あの場所に興味を持ち、制限区域内に興味があったから。つまり、あの場所に魅了されたの。とても映画的な場所に思えた。映画を撮る上で強い視覚的イメージがそこにあった。そこにいる人々はまるであの場所の亡霊のようだった。私はそこに興味を引かれたの。

OIT:それに、あの場所を様々な季節に亘って描いていますね。かなりの回数を通ったのですか?
MB:そうなの。夏と冬に撮影したけど、最初に全てが春に起きた。チェルノブイリの惨事が起きたのはとても美しい日だった。まるで楽園のように。とても静かで、小さな町で人々は幸せに暮らしていた。特に不幸な生活をしていたわけでもないし、悪評のある場所でもなかった。モデルケースのような街だった。

OIT:楽観的ということですか?
MB:そうね。もちろん模範的な街だったのは(多くの)人々が発電所で働いていたから。(当時の)ソ連の中でもエリートの人が多かった。ふつうの市民より優遇されていたの。プリピャチという村自体がそんなモデルケースだった。私はそんな皮肉をこめて描いたつもり。その時、全てを破壊するような爆発が起きた。でもそんな爆発も、私たちは目にすることがない。もちろん意図的にね。そこにいた人々も、それが大惨事になることを理解していなかったから。あとでそれを知ることになるの。だからこそ、みんなには何も見えていなかったの。それに冬を描くことを選んだのも、制限区域内の冬の方がより映像的に強いと思ったから。

OIT:求めていた映像的な強さは?静けさ、凛とした美しさ?
MB:映像的には、前半で自然の美しさを撮影しました。そして後半で破壊を見せるようにした。そこは廃墟のようだから。(少年から大人になった)ヴァレリーが区域内に入っていく時も、全て本当の場所で撮影しているの。

OIT:銅像とかもありますね。
MB:そう。全てよ。たとえば、プールでも図書館でも、全てがリアルなの。とても強いイメージだと思う。タルコフスキーの『ストーカー』(79)のように。そのイメージはあったのよ。ただし、現実の中でね(笑)。


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