OUTSIDE IN TOKYO
MICHALE BOGANIM INTERVIEW

ミハル・ボガニム『故郷よ』インタヴュー

4. 私はある土地で育ち、そこではたくさん戦争がありました

1  |  2  |  3  |  4  |  5



OIT:元々、きっちりした脚本があったのですか?それとも、その場所を訪ねるうちに変化していったのでしょうか。
MB:実は脚本を書くのに5年もかかっているの。あまりに複雑で、映画の中でたくさんの層を混在させたかった。3つの視点、3つの異なる物語があり、2つのパート、前後半があるために複雑でなかなか到達できなかったの。時間をかけて、何が必要かを感じ、何を見せるか、また見せないかも大切にした。これだけ大きなテーマを扱っていると、全てを入れるわけにいかなくて。私にとっては大惨事を見せないことが大事になった。そこまで理解するのに時間がかかったの。見せるより見せずに描いた方がよりおもしろいものになると。だから映画としてとても複雑になったのは、物語自体が複雑だから。放射能とは何か?何が見えて、何が見えないのか。何を恐れ、何を恐れないか。人間が反応する前に自然がすでに反応しているとか。そして時間も大きなテーマね。映画の中で時間が断絶している。一度中断され、10年後の物語がそのあとに展開される。そうしてチェルノブイリの後に時間の中断があったことを意識したかった。そして制限された空間も興味深かった。区域内は、チェルノブイリ(の事故)後にもちろん立入りが制限された。とても抽象的ね。
ある人が映画の中で言うんだけど、なぜ制限区域が45キロではなく40キロなのかとか。きちんと観察すると、放射能は均等に拡散するわけではないことも分かる。たくさんの斑があるの。だから制限区域内でも放射能の強くない斑(の場所)もあれば、区域外でもかなり強い場所(ホットスポット)がある。区域内でもある場所はとても安全で、区域内だから同じように危険というわけでもない。だから区域内と言っても全て同じなわけでもない。そういうこともこの映画の中できちんと見せたいと思ったの。区域内に住んでいる人も区域外に住んでいる人もいる。映画の中でアーニャという女性はスラヴティチで月に15日間は過ごしているけど、それでも放射能に汚染されている。それに映画の最期に水が汚染されているイメージがある。しかもそれは制限区域外のスラヴティチなの。大事なことはまだあって、それは人々がその土地に執着してしまうこと。その土地に毒性があるなしに拘らず戻りたい人たちがいて、彼らはみんなこの土地の暴君でもあるの。それに見捨てられてしまう厳しさもあるわね。

OIT:そうしたところにはあなたがイスラエル人であるという背景も関わっているのですか?
MB: ええ。たぶんそうね。私はある土地で育ち、そこではたくさん戦争がありました。何度もその場所を出立しなければならなかった。それでもそこが自分の国だと感じているし、頻繁に帰ってもいます。今年の夏も帰ってた。多くの人は私に「帰るな」と言うけれど「大丈夫、帰らないといけないのだから」と応えるの。だから私がこうした国外追放や強制退去、それに居場所がないことと繋がりを感じずにいられるわけがないのよ。

OIT:生まれはどこですか?
MB:(イスラエルの)ハイファよ。

OIT:そして今はパリ在住?
MB:ええ。でもイスラエルにはしょっちゅう戻ってる。私の家族にもまだ残っている人がいるわ。

OIT:パリにはどんな経緯で落ち着いたのですか?
MB:私が7歳の時に家族で移り住んだの。レバノン戦争の後に家族で国を出たの。

OIT:あなたにとって故郷がイスラエルという感覚はありますか?
MB:ええ、そうね。フランス国籍もあるけど。二重国籍よ。

OIT:最初の段階からどう映画を作りたいと思いながら作業を始めたのでしょうか。
MB:まず、(冒頭の)詩があって、子供の声で読まれている。その最初の部分は、子供の記憶を辿るように入りたかったの。その世界は彼の記憶の中にあり、その全てが消えてしまう。それがたとえ記憶でも夢でも。でも記憶の方が強いわね。3人の登場人物がいて、3人は何かと融合している。最初に出てくる森林警備隊員は木々と融合している。それに(原発エンジニアの)父とその息子がいる。2人は植樹をして自然について語り合う。自然と人間の過ちについて。人は自然に名前を付けられない。名前は大事なポイントで、父親は映画の最後で再び人の名前を確認しています。詩の最後になってようやくその木に名前があると言う。その木の名前は父親の名前だった。それがぐるりと回って木に名前は付けられないところに戻る。父親が見つからなかったため、その木が父であるかのように父の名前を付けたことも。そして鏡で対を成すように最初と最後が繋がる。それから愛の融合がある。これは同時にラブストーリーでもあるの。アーニャという女性と彼女の夫の物語として。全てがあの川で起きたこと。その川が、世界の全てが繋がっている感覚を代弁しているの。この世界は小さく、(彼らの世界が)プリピャチ川だということも分かる。そんな2人とエンジニアは違う人だけどどこかで繋がってもいる。世界はそのうち終わってしまう。(最初の部分で)一人の母親が川で歌い、その世界が消えてしまうことを見せたかった。それが興味深いと思ったの。映画は川のシーンで始まる。そうして先ほど話したようにタルコフスキーに触れるところがあり、同時に、有名なロシア映画の、ミハイル・カラトーゾフ(Mikhail Kalatozov)の戦争映画がある。『鶴は翔んでいく(The Cranes Are Flying)』(57)はロシアでとても有名な映画で、女と兵士のラブストーリーなの。戦地へ旅立つ時、兵士は女に、来年の春、また鶴が翔ぶ時に戻ってくると言う。でも彼は戦争で亡くなり、戻ってくることはない。そんな鶴(の姿)もこの映画で見ることができるわ。


1  |  2  |  3  |  4  |  5