OUTSIDE IN TOKYO
Michelangelo Frammartino INTERVIEW

ミケランジェロ・フランマルティーノ『四つのいのち』インタヴュー

3. 今、重要なことは“信じること”。信じる力が失われたから世界との繋がりが失われた。
 映画は、物事の繋がりを表すことができるし、そのテーマは非常に重要なものだと思う

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OIT:映画の始まりと終わりは、既にその土地のアニミズムに触れた時点で決めていたことですか。
MF:プロローグ、つまり炭焼きから始まるというのは、編集の時に出てきたアイデアで、最初は考えていませんでした。エンディングに関しては、煙突から煙が出てくるところで終わるのは(既に)可能性のひとつとして考えていましたね。

OIT:アーティストとしてインスタレーションなども行ってきたと聞いていますが、表現の手法として、ギャラリーや空間で作品を見せる行為との違いについてはどうですか?
MF:ビデオ・インスタレーションをやっていたのはずいぶん昔のことですが、インタラクティブなものをやっていました。その中で、実際にビデオで撮っているものを映し出すというものをライブで撮っていたわけです。映画は撮ったものを後で見せるわけですから、その生の要素はないわけですね。だからそこは全く違うものとして考えていて、道具によって表現することはやっぱり違うと思うんです。ただ、映画館も一種の建築として考えているので、例えば、座って、闇があって、スクリーンがあって、空間のことを、やはり映画を撮る時も、スペースのことを考えながら、映画を撮っていると言えます。それはビデオ・インスタレーションをやっている時に学んだことですね。

OIT:ある時間枠の中で観客を閉じ込めておけるというのは、特にこのような映画の場合は有効ですよね。観客の忍耐力というか、ある時間をかけて物語をちゃんとフォローできるという、時間的な制約があるという意味でも。
MF:これはインスタレーションをやっていたことから学んだことかもしれませんが、それに、さっきも感じていただけた気はしますが、自分は観客にある程度、解釈の自由を与えていると思うんです。自分の映画に欠けているものがあるということです。自分の穴というか、抜けているもの、欠落している部分があって、それを観客が埋めていると思うんです。それはインスタレーションのインタラクティブ性に通じると思いますし、そういった部分で、観客自身が、映画の一部をイマジネーションで作っていくというのがあって、それは何を作るかというと、映画のスクリーンの向こう側にあるものなんです。それを考えていく、という意味においてはインタラクティブだと思いますし、観客にある種の自由を与えるということでもあると思うんです。なので、時間を限って、時間の制約を与えるということはそれほど気にしていないです。むしろ、逆に自分の中で自由を与えていると思います。昔は、インスタレーションを始めた頃は、映画にできないことをやりたいという意味でもインスタレーションをしていたわけです。映画を不自由だと感じていたから。台詞があって、言葉があって、物語がありすぎて、そこに制約されすぎるという反動として、ビデオ・インスタレーションが浮かんだ部分もありました。でも自分の映画ではそれと別のことができるという風に今は思っていますけどね。

OIT:自分を映画監督として見ていますか。
MF:まず、第一に観客であると感じます。何よりも、自分が観客だという感覚があって、人の映画を見るのも好きです。長い間、映画を撮っていたので(最近は)あまり見ていないのですが、(映画を)見ている間にアイデアが生まれることもありますし、同じミラノや、イタリアの他の映画作家の映画は(特に)見ています。

コップが一杯になると出さなければいけないのと同じです。ゴダールいわく、インプレッションがあってこそエクスプレッションがある。つまり、印象をたくさん取り込んでから、表現に向かうというようなことを言っていますが、それが一杯になると出していく必要性が出てくる。でもまずは映画を見ることから始まるんですね。

OIT:そう言った上で、自分はどのような映画で出来上がっているのですか?どのような映画を取り込んだ結果、映画を撮っているのでしょう。
MF:たくさんいますね。重要な人はたくさんいます。例えばロッセリーニはとても重要です。ロシアのドブチェンコも。それに90年的な作家で言えばツァイ・ミンリャン。小津安二郎もとても重要な存在です。でも最近のベラ・タールやイランのキアロスタミ、フランスのブリュノ・デュモンもいます。それに監督だけでなく、カメラの使い方でも好きなのが、マイケル・スノー、ジェームス・ベニング、スイスのアーティストで2人組のフィッシュリ=ヴァイスも好きです。既存の映画のナラティブで語らない人たちに惹かれますね。

OIT:最近、精神性、宗教性、より深い宗教性を求めるような映画が多い気がしますが、監督はそう感じますか。
MF:カンヌではアピチャッポンも輪廻を描いているし、ロンドンでもシンポジウムがあり、精神性のテーマについて語っていました。僕が思うに、今、重要なことは“信じること”だと思うんです。それは先ほど話した世界との繋がりでもあると思いますし、信じる力が失われたから世界との繋がりが失われたとも言えます。でも信じる力を持っていれば、直接繋がっていられるわけです。それが出来ないから、繋がりが切れてしまっている、ということだと思うんですね。そこで映画は、物事の何らかの繋がりを表すことができると思いますし、そのテーマは非常に重要なものだと思います。見えないものを表すことができる、映し出すことができるわけです。若い頃は映画があまり好きではなくて、映画に対する反動もあったと言いましたが、映画に戻ってきた結果、再発見したという感じです。そして実際に再発見したのは、聖なる場所、聖域のように感じていることです。教会のような感じで映画を感じています。それで今はそういう場所に自分が戻ってきたという感じがします。

OIT:この映画の後は、既に別の映画の作業をしているのですか。
MF:ちょっとアニメーションの構想があります。この映画が一時期止まっていた時に色々と絵を描いていたのですが、既に35分のパイロット版も出来ていて、プロデューサーも興味を持っています。ただ、次の作品がそれになるかどうかはまだ分からないんですけどね。


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