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OLIVIER ASSAYAS INTERVIEW
オリヴィエ・アサイヤス『アクトレス 〜女たちの舞台〜』

オリヴィエ・アサイヤス監督の新作『アクトレス 〜女たちの舞台〜』(原題:Sils Maria)には、『イルマ・ヴェップ』(96)、『感傷的な運命』(00)、『デーモンラヴァー』(02)、『クリーン』(04)、『NOISE』(05)、『夏時間の庭』(08)といったアサイヤス作品の特権的瞬間の全てが詰まっている、現時点における監督の最高傑作であると言って良いだろう。

奇しくも、こちらもジュリエット・ビノシュが主演した、アッバス・キアロスタミの『トスカーナの贋作』(10)における虚実ないまぜの会話劇、ローマン・ポランスキーの『毛皮のビーナス』(13)における演劇的虚構の現実への浸食、かつて、ジャン・エプシュタインやジャン・グレミヨン、そして、まさしく、アーノルド・ファンクが捉えた、山々や雲の”時”を超える自然、そうした豊かな映画的光景と舞台設定の中で、ジュリエット・ビノシュ、クリステン・スチュワート、クロエ・グレース・モレッツといった現代最高の女優たちが”シルス・マリア”に集結し、やがては霧散して行く中で、まさに映画が作られていく瞬間瞬間を観客は目にしていくことになる。

ジュリエット・ビノシュが演じる大女優マリア・エンダースを”ヨーロッパ文化”、クリステン・スチュワートが演じるマリアのマネージャー、ヴァレンティンと、クロエ・グレース・モレッツが演じる破天荒な新進女優ジョアン・エリスを”アメリカン・ポップ・カルチャー”の流れに解き放つことで、”アートフィルムの牙城”と”市場を席巻するハリウッド映画”、2つの乖離した”映画”の現在を構図的に示す明晰さは、アサイヤス監督が本インタヴューで語っている通り、必ずしも、エスタブリッシュメントを擁護し、ティーン・ムービーをトラッシュとして否定するためのものでは全くない。映画は、ヨーロッパの教養主義を相対化しつつ、ネット空間を膨張するアメリカン・ポップ・カルチャーの河岸を駆け抜け、シルス・マリアの高みへと昇りつめエニグマティックな魅力で見るものを虜にする。

本インタヴューを行った翌日、映画美学校において行われた青山真治とオリヴィエ・アサイヤスの監督対談でなされた、「オリヴィエの映画は、いつも女性が消える、"The Lady Vanishes”の映画である」との青山真治による指摘は、やはり重要である。アサイヤスは、本作のクレジットにおいて批評家ドミニク・パイーニに謝辞を捧げている。アンスティチュ・フランセのプログラム・ディレクター坂本安美氏がアサイヤス本人から聞いたところによると、アサイヤスが謝辞を捧げたのは、パイーニ氏が書いた「雲と映画」論に啓発されたところがあったからであるという。そのパイーニ氏の言葉を借りれば、”雲”とは、「夢想とイマジネーションにとって特権的な媒体」であり、「レオナルド・ダ・ヴィンチの表現を借りれば、「逃げさるイメージ」」なのであるという。この”雲”の「逃げさるイメージ」が、本作においてどの女優に託されたかは、映画を見れば明らかである。

映画の終幕で、マリアのところに、自作に出演してほしいと嘆願する若き映画監督が現れる。「僕は今の時代が大嫌いです。僕の映画は、時間の外に生きているのです。」この言葉は、まさに若かりし日のアサイヤス監督の言葉、そのもののようにも聴こえる。高みへと登ること。過去の自分と向き合い、それを乗り越えていく自分との戦いの中から、”神”を語らずして、”崇高さ”へと至る道のりを、この映画は示してくれている。

1. 私は異なるものの間にコミュニケーションを打ち立てることに興味を持っています

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Q:アサイヤス監督の作品はかなり多くの作品を見てきていますが、この作品は、現時点における監督の最高傑作なのではないかと個人的には思いました。本作では、ジュリエット・ビノシュ、クリステン・スチュワート、クロエ・グレース・モレッツという、ヨーロッパの大女優とアメリカの勢いのある若手女優による、素晴らしいアンサンブルキャストの競演を観ることができるのですが、日頃、私たちがアートフィルムとブロックバスター、両方の映画を観ていると、同じ“映画”といっても、両者は随分乖離していると感じます。アサイヤス監督の映画はそれらを接続している感じたのですが、そのような意図はありましたか?
オリヴィエ・アサイヤス:もちろんです、私は異なるものの間にコミュニケーションを打ち立てることに興味を持っています。普段コミュニケーションがないところにコミュニケーションを作ること、異なるものを出会わせることに興味があります。同じ世界に属していながら、なぜか会う理由がない人達、その人々の間にコミュニケーションを打ち立てるということに興味があるのです。ですから異なる文化の間の対話にも興味があります。そしてまた映画の持っている異なる様々な層、異なる世界の間でコミュニケーションを作ることに興味を持っています。同時に、『アクトレス 〜女たちの舞台〜』を、フランス演劇の文脈の中だけで考えることも出来たでしょう。そうすると、閉じこもる山荘の変わりに『夏時間の庭』(08)に出て来たようなパリの近くの別荘、田舎の家が舞台ということになります。けれども今回英語で撮影をするということで目指したのは、ただ単なる成熟した女性と若い女性との対話だけではない、何か異なるものを作っていこうということでした。言わばヨーロッパの芸術の古典的、伝統的な思想を、ハリウッド映画とは限らない、別の現代のピープル的な世界、インターネットがベクターになって広めるピープル的な世界に向けて広げていく、そうすることによって映画そのものの意図が広がると思ったのです。

Q:マリアは自分の年齢のことを気にしていて、彼女が出演することになった演劇、かつて彼女が若い頃に出演して注目を浴びた作品のリメイク作品における役柄とかぶって見えてきます。マリアは、その役柄から強く影響を受けているように見えるのですが、監督ご自身はマリアという女性をどんな風に捉えて描いたのでしょうか?
オリヴィエ・アサイヤス:もちろん俳優は自分が演じる役に影響を受けます、それが俳優の仕事の一部だからです。俳優は表面的な演技をすることは出来ません。なんらかの役を演じる時、その登場人物と木霊する部分を、自分自身の中に見つけていかなければなりません。今回、演出家がマリアに対して要求していたことの特殊性は、彼女が演じなければいけない役は彼女自身の辛い記憶を呼び覚ますものであって、それに直面をしなければいけないということを求めていたという点です。即ち、彼女自身は反逆する若い女優という、かつて演じた役の方に自分を同一視していたのですけれども、その同一視自体を疑問視しなければならない、そういう役になっています。即ち、時の移行、時間がとりさることだけではなく、ここで問題になっているのは一つのアイデンティティーから別のアイデンティティーに移行するということです。そうしていくことによって、最初のアイデンティティーを捨て、諦めなければならない。マリアがあの役を演じることを受け入れることにあれほど抵抗を示したのは、一つの思い出の故です。その思い出は自分が若い女優であった時に、若い女優としてどのように成熟した女優を見ていたかという、その視線の思い出です。彼女が怖がっているのは観客やあるいは相手役の若い女優からの視線ではなく、若い時の自分が今の自分を見る、その視線を恐れているのです。

『アクトレス 〜女たちの舞台〜』
英題:SILS MARIA

10月24日(土)ヒューマントラストシネマ有楽町、新宿シネマカリテほか、全国ロードショー

監督:オリヴィエ・アサイヤス
製作:シャルル・ジリベール
撮影:ヨリック・ル・ソー
美術:フランソワ=ルノー・ラバルテ
出演:ジュリエット・ビノシュ、クリステン・スチュワート、クロエ・グレース・モレッツ、ラース・アイディンガー、ジョニー・フリン、ブラディ・コーベット

© 2014 CG CINEMA - PALLAS FILM - CAB PRODUCTIONS - VORTEX SUTRA - ARTE France Cinema - ZDF / ARTE - ORANGE STUDIO - RTS RADIO TELEVISION SUISSE - SRG SSR

2014年/フランス、ドイツ、スイス/124分/カラー/シネマスコープ/DCP
配給:トランスフォーマー

『アクトレス 〜女たちの舞台〜』
オフィシャルサイト
http://actress-movie.com

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