OUTSIDE IN TOKYO
Percy Adlon INTERVIEW

パーシー・アドロン『マーラー 君に捧げるアダージョ』インタヴュー

2. 『交響曲第10番』は彼の第一稿のようなものです。
 彼はその後も、それを滑らかに作り直すことがなかった。
 他の全ての交響曲でやっていることを、この曲だけはやらなかった。

1  |  2  |  3



OIT:そんなあなたから、マーラーが『交響曲第10番』に反映される感情はどのようなものだったのでしょうか。
PA:私は、注意深く聴いてみる時、それが物語の全てを語ってくれていると思うのです。私の意見では、それは彼の第一稿のようなものです。彼はその後も、それを滑らかに作り直すことがなかった。他の全ての交響曲でやっていることを、この曲だけはやらなかった。それは彼の病気が重くなり、その後、ずっと病いに苦しめられることになったからです。彼は死の床にあり、もう作曲することもできなくなっていた。そして彼はそれを彫刻家が、粗いままに作品を削り出すかのように、磨きあげることなく、それを私たちにそのまま遺していったのです。「アダージョ」の真ん中で、“チャペル”と呼ばれる部分ですが、どんどんと無調で盛り上がっていきます。その和音の頂点にトランペットが響き渡る。(妻)アルマを象徴するAの音で。その瞬間はあまりに唐突に訪れる。その直前はとても低いテンションのまま、バイオリンがほんのわずか、ひとつの音の周りを演奏する。そこにはまるで探偵小説のような、わずかなサスペンスがある。そして突然、ガーっと大きくなり、パパーっと鳴る。本来の彼ならば、それはそのままに残さなかっただろうと思います。今、私たちが聴ける状態では。

OIT:それは感情的すぎるからですか、それとも粗すぎるから?
PA:そう、粗すぎるからです。ただのアイデアや感情ではない。それは“怒り”なんです。パウル・ベッカーは、「音楽の文脈で知る中で最も怒りに満ちた表現である」と言っている。そしてとても長いヴィオラだけのセクションから始まる。それは彼のいらだちを表す。まるで、固まって動けなくなるように。うっって、事故に遭ったときのように。でもその後に、とてつもなく感動的な、甘さが漂ってくる。9年間のある時期には、自分たちの結婚生活がどれだけ喜びに満ちて幸せだったかを思い出すような、愛のメロディーが聞こえる。そういうわけで、その中で、物語は全て語られている。そこで僕が感じたのは、一方では、物語があり、キャラクターや登場人物たちがいる。そしてもう一方では、音楽がある。そしてただのサポートとして使うのでなく、その音楽をちゃんと活かしたかった。装飾や壁紙のようにではなく、真剣なパートナーのような形で使いたかった。(指揮者の)エサ=ペッカ・サロネンは私に言った。「あなたは2つのナラティブを作った。ひとつは物語で、もうひとつは音楽」それに私たちは3つ目を作った。それはウィーンのゴシップです。お義母さんがカメラを見ながら言います。「義理の息子とは親しいし、とても愛しているのよ。でも彼は私の娘を壊したの」というふうにね(笑)。

OIT:より現代的なストーリーテリングですね。
PA:そうですね。彼女は現代的なアーティストになりたい人です。歴史ではあるけれど、私たちは歴史をこっちの世界へ引っ張り込む欲求がある。歴史をただ語るだけでなく、ある時代に属しているが、観客も自分の人生をそこに投影することができる。自分の運命や自分の抱えている問題も見えてくる。現代の同じ若い女性であっても変わらない状況です。才能があり、自分の欲求を満たしたいひとりの女性なのです。

OIT:では、この映画の主人公はマーラーですか、アルマですか?
PA:主人公はアルマだと思います。でもそのすぐ後ろにマーラーが迫っています(笑)。この映画の語りには2つあります。ひとつは、ひとりの娘とマーラーの出会いです。そこにはユーモアが漂います。2人の頑固さがおかしい。1人はセクシャリティーのことなど全く触れたがらないし、もう一人はセクシャリティーのことしか話したがらない。そういうものはありますね。そして、求心力は、アルマの歴史です。つまり、彼女の結婚の歴史。彼女は自分の夢を全て実現したいと思っていたのに、実際には彼の夢、彼の才能しか実現することができなかったという事実。そして彼女は彼をサポートする道しかなくなってしまった。そして彼女はそれに同意し、理解し、そうするしかなくなってしまった。彼女のセクシャリティーさえ、その9年間(の結婚生活)が終わりを迎えるまで表現できなくなっていた。ベッドは冷えきっていた。彼の炎は全て音楽に注ぎこまれてしまっていたから。それがベッドに持ち込まれることはなかった。でも彼はそれで正しかったと思うのです。彼がいくらベッドに情熱を持ち込んでも、私たちには彼の音楽以外、楽しむことはできなかったのでしょうから(笑)。

OIT:最終的に、2人とも落胆を味わうことになるわけですね。
PA:そうなんですよ。

OIT:マーラーは親しみのある人間だったと思いますか?
PA:それはないと思います。彼とつきあうには、相当にがんばらなければいけなかったと思います。でもね、私もたくさんのアーティストを知っています。人間としてはとても魅力的で、素晴らしくクリエイティブなのに、好まれやすい人とは言えません。あまりにも彼らの周りには(感情の)爆発がある(笑)。だからマーラーも好まれる人間ではないでしょうね。でも彼が親しみのある人間かどうかは、彼を表現する上では重要なことではないと思います。彼が本当にそうだろうという信じられる形で私は彼を表現した。彼がスナップに写っている姿があります。あの鼻筋の高いオフィシャル・ポートレートの姿ではなく。でも、よく目にされる一連の写真です。街で出くわしても気づかないほどの小さな男で、醜い大きな手を持ち、いつも爪を噛み、歯並びが悪く、小柄なふつうの男です。彼を見ると、美しさよりも、気むかしさが溢れています(笑)。

OIT:才能ゆえのエゴがにじみ出ていたわけですね。
PA:そうですね。でもそれは身を捧げるに値することです。彼のような作品を生み出すためには。でも同時に、彼はそれを誰も欲していないことに、常に気づかされてしまう。それは映画を次々と撮って、それらがとても美しく、重要なことだと自分では信じているものの、一本毎に駄作を作ってしまう監督とも似ています。それはその人の気持ちを砕いてしまう。それは大なり小なり、全ての作家が経験することです。常に成功する作家などいないはずです。一人もいないと思います。トーマス・マンは、『ブッデンブローク家の人々』を書き、彼の唯一売れた本となった。フローベールも『ボヴァリー夫人』を書き、それも唯一売れた本です。その周囲には偉大な作品があります。でもそれらは『バグダッド・カフェ』ではない(笑)。他の映画はディストリビューターにとって失敗作なのです。でも私にとって失敗作ではない。『サーモンベリーズ』『シュガー・ベイビー』、そして処女作の『Celeste』も、僕にとって全く失敗ではない。世界中の観客に観られています。ただマスな観客にウケなかったというだけ。派手なサーカスではない。広くマスを楽しませていない、マス・エンタテインメントでないだけです。でも映画はマスなエンタテインメントでなければならない宿命にあります。蓋を開ければ、映画は『スター・ウォーズ』でなければいけない。それがみんなの意見です。

OIT:みんなですか?
PA:そう、みんなです。誰もが、映画は『スター・ウォーズ』のようなものでなければと思っています。それとも『スパイダーマン』か。

OIT:でも、あなたにとっては?
PA:私かい?私は違うよ…(笑)。


1  |  2  |  3