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PIERRES SCHOLLER INTERVIEW

ピエール・ショレール:オン『ベルサイユの子』

3. 私が映画の中で主張したいのは、エンゾを通じた格差社会より、ニーナの存在です

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ニーナはエンゾを愛しているし、育てる意志も持っているように見えますが、自分が仕事を得るため、彼を育てるために置いていきます。フランスでもシングルマザーの就労問題はむずかしい問題なのでしょうか。
いや、ニーナのように、ああした生活を送っている女性はフランス人に少ないのですが、モロッコ人だったり、アルジェリア人だったり、アフリカ人だったり、いわゆる出稼ぎに来ている人だったり、移民だったり、そういう人たちが、若くして、あれくらいの年齢で、実際に子供をたくさん産んで、生活できないために社会福祉や生活保護の世話になる人たちはいますよね。あれくらいの年齢で子供が2、3人いたり。そして自分たちの社会からも拒否されるという問題があります。
社会的な支援を受けられるのは、法律的に25歳からなんですね。なので、それ以前ですと、女性のみならず、男性も含めて、そういう生活に問題がある人はむずかしい人生を送ることになります。

ダミアンとエンゾを描くことで、新しい親子のあり方を示したと思いますが、従来の意味での親子に戻っていきます。監督は何をもって親子になると考えますか?
この映画を通して私が思ったのは、親という定義は、子供が必要としている時に、たとえ血縁関係になかったとしても、その人が父親の立場にあるかどうかが大事だということです。その時、親、または親としての存在がどこにいるのか。つまり、子供が最も必要としている時に、そこに父親としているのか、もしくは、たとえ母親代わりであっても、その場にいてやれるかどうかなんだと思うんです。だから血縁関係がなくても、例えばダミアンは、エンゾが父親を必要としていたから、うまく、必要性に応じて、そこにはまったから、彼にとっては父親になるわけです。例えばダミアンのお父さんの奥さんがいます。彼女が子供を育てるわけですよね。となると、その時に母親を欲していたエンゾにとっては、彼女が母親になるわけです。そういう意味で、最終的には親子の定義に関して言えば。そういう支えがあるからこそ子供は大きくなると思っています。ニーナに限れば、血縁関係があり、必要があるから出て行くわけだけど、だからと言って、自分の母親の役割を放棄することではなく、再び母親として戻ってきますね。だから血縁関係にあるかどうかではなく、その時に応えられる人間が父親にも母親にもなり、親になるということです。

その時に必要としている時に、必要な人間が親になり得るということですか?
要するに、お父さんになるとか、お母さんになるとか、親になることよりも、子供の要求に応えられるかどうかなのです。子供という存在は常に何らかの要求があり、何かしてもらう必要があるわけですから。なのでその役割が必ずしも、お父さんやお母さんでなくてもいいというのが私の受け止め方ですね。
例えばダミアンのお父さんの奥さんである義理のお母さんですが、エンゾはその女性に惹かれますよね。でもそれは母性に惹かれるというより、自分の母親のニーナが女性的な人ではなかったため、初めて女性という性に触れた時に子供として惹かれるわけですね。だからお母さんとしての要素もあるけど、同時に、女性というものを知らなかったために、子供ながらに、そこにうまくフィットするものとして、成長過程における役割を果たしているわけです。あとエンゾが中学生になるシーンがありますが、あの時、義理の母が手紙を渡しますね。あの時、彼は自分で読めないわけです。手紙を渡す時は、母親ではないけど、その時に必要な人間であり、信頼しているから手紙を渡す。その女性も母親でないことは百も承知です。だから手紙が読みづらい。でも彼が必要としている人間だと分かっているから読むんです。
確かに、未だに核家族というのはありますが、今はどこの社会でも、結局一人のお母さんがいて、一人のお父さんがいるという家庭のあり方がほぼ存在しなくなっていると思うんです。というのも、出会いがあって、親も別れるし、再婚するし、そういった意味でお父さんがたくさんいたり、結果的にお母さんもたくさんいたり、またアフリカなんかだと一人の子供をおばさんが育てたり叔父さんが育てたり、いろんな人が育てるわけで、そういう意味では、誰が親かということでなく、どれだけ人が愛情をもって育てるかということだと思うんです。

今の日本でも格差社会があり、貧困が問題になっていますが、エンゾのような子供を作らないために、もしくは救うために、社会ができることは何だと思いますか?
私が映画の中で主張したいのは、エンゾみたいな子供、エンゾを通じた格差社会より、ニーナの存在です。つまりニーナという女性を通じて、世の中に存在する不正、正義感のない現実を主張したいのです。
ニーナは、愛情の存在しない社会で生きてきた女性です。この女性の、社会における悲劇的な点は、これまで誰も彼女に注目してこなかったことです。生きているけど、存在してこなかった女性なんですね。
子供を産むのであれば、愛するためであるべきで、そのためでなければいけないというのが私の考えです。産むのなら愛するためであるべきで、でなければ、なぜ産むのかってことです。この世の中は、格差と言いましたが、いろんな富が積み上げられています。要するに、いろんな富がある中で、それを分かち合うことができない社会構造にあるのだと思います。

ピエール・ショレール監督プロフィール
1961年生まれ。パリのエコール・ルイ・リュミエールで学び、脚本家として活動を始める。主な脚本にアラン・ゴミ監督『L' afrance』('01)、ジャン・ピエール・リモザン「カルメン」('05・フランス映画祭2006年上映)など。2003年にTV映画「Zéro défaut」を監督。『ベルサイユの子』は長編映画第1作。2008年度カンヌ映画祭「ある視点部門」で上映され、高い評価を得る。
(『ベルサイユの子』プレス資料より)

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