OUTSIDE IN TOKYO
TARR BELA INTERVIEW

タル・ベーラ『ニーチェの馬』インタヴュー

2. 人生は労働であり、生き残るため、自分を守るための労働である。
 生きるということは闘っているということ

1  |  2  |  3  |  4  |  5



Q:今の質問をもっと深く踏み込んで行きたいのですが、どの時点で俳優を含め全員のバランスがとれて、監督のプロセスを始められる準備が出来たと感じられるのでしょうか?
TB:すごくいい質問だと思います。我々は皆、愛し合っているし、これはとてもひどく大事なことです。自分が俳優を好きでなければ、どうやって彼らに自分に信頼を寄せてくれる期待が出来るでしょう。俳優の、物事に対するリアクションであったり、瞳とか、そういったものを自分が見通さなければいけないわけで、その過程で俳優も自分をオープンにし、自分の人格を自分たち、あるいは作品に見せる準備が出来ていなければいけない、自分のことを信頼してくれなければいけないわけです。監督としては、俳優さん達に対しては決して彼を侮辱しない、傷つけない、尊厳をリスペクとするという気持ちを見せなければいけない、その中でお互いにリスペクとしあい、信頼しあい、愛し合い、そういう風になった時に一歩前に制作に進めるという風に感じます。これがどれか一つでも欠けていると、作品としてはもうお先真っ暗になってしまう、これは映画を作り始めた当初から自分が知っていたことであります。様々な映画を作るということは人物を様々な状況に強いるということであって、それだけにやはり冷酷であってはいけないわけなのです。それはまるでタイミングというか、いつ準備が出来たと感じられるのでしょうというのは、まるで恋に落ちるようなもので、ある女性を見る、その女性に対して何か感じるものがある。そうしたらもう言葉はいらないわけです。そこでもう準備は出来たと感じるわけです。

Q:一日目、二日目と移っていく中で、毎日カメラポジションが変わっています、特に暗転から次の日に移る時に。そこにはどのような意図があったのでしょう?
TB:まあ、ひとつ言わせてください。この映画では人生というものを非常に純粋にミニマムな形で見せているつもりです。毎日、我々はルーティンを生きている、でもそれは毎日厳密に同じかというと実は違う、日々人生というものは短くなっていくからです。人生は弱まっていく、個々のエネルギーというものも段々と失われていく、だから日々のルーティンをこの映画では見せているんだけれども、実は段々と弱まっている、あるいは少しずつ、実は変わってきているんだというのを、カメラポジションを変えることによって、また違うアングルから写すことによって、そしてリズムを変えることによって見せています。ですから時間経過をそれによって感じられると思うんですね、あるいは何か日々失われていくんだという感覚が多分伝わるのではないかという、そういう意図です。

Q:日々の労働が同じような形で繰り返されるわけですが、その中で例えば食事はいつもじゃがいも2個で、お父さんの方が拳骨でじゃがいもを潰して食べる、食事でさえもが日々の労働のように感じられますが、その辺はどうなのでしょうか?
TB:何かそれをメッセージ的なことでお伝えしているわけではないのですが、全ては労働ではないでしょうか。人生は労働であり、生き残るため、自分を守るための労働、あるいは言い換えれば、我々は生きるということは闘っていると言い換えられるわけです。

Q:最後にじゃがいもを食べているのを見て、最後にはゴッホの絵みたいにあの人たちがなってしまったような感じを受けたんですけど、どうなのでしょうか。この画のイメージというのはお持ちだったのでしょうか?頭の中にありましたか?
TB:画家から人生を色々と学び、自分は得ました。映画作家よりも画家から学んだことの方が多いかもしれません。(笑)今おっしゃったファン・ゴッホもよく知っているし、そういった作品は今でも脳に存在しているわけで直接的に作品を作っている中に応用したいというわけではないんですよね。ただ何か感じるものがあって出てくるというか、漂泊してくるというか、という感じでしょうか。でも間違いなく最後に今おっしゃったシーンというのはゴッホであったり、他のオランダの画家たちの作品と何か繋がっているようには感じます。同じような人生を見せようとしているのかもしれません。そこにある人間性が同じなのかもしれません。だから我々の絵画を観た時の反応と『ニーチェの馬』を観た時の反応というのが近いのかもしれません。

Q:『倫敦から来た男』、特にこの作品というわけではないけれど、そのキャラクター達がより高みにある存在にあって、神なのか何なのか分らないけれども、動かされているような、ちょっとマリオネット的な感じがしたのですが。
TB:マリオネットではないです。(そこに)キャラクターの人格であったり感情は感じられたりしましたか?

Q:はい。
TB:つまりマリオネットは人形である、人形では、我々が感じとることは出来ないはずです。痛みだったり、欲望だったり、彼らの努力というものは感じ取れないはず。感じ取れるのだから人形ではない、つまり自分は登場人物達を観客達に愛してもらいたいし、理解してもらいたいし、共にあってほしいと思いながら描いています。優しくは描くんだけど、決してセンチメンタルに陥ってはいけない、私はセンチメンタルは大嫌いです。センチメンタルというものはくだらない、ブルジョワ的なエモーションである。実際の人生の中でもちろん我々は多様なエモーションを感じるわけだけど、強くなければ生き延びていくことは出来ないわけだし、たとえ弱かったり、もろかったりする人でも、その人はその人なわけだから、センチメンタリズムは嫌いです『ニーチェの馬』などの作品を撮る時も、いつもぎりぎりのところで、非常に危ないわけですけど、例えば、もしかして倒れてしまうこともあるかもしれない。センチメンタリズムに陥ってしまったら、そこで倒れてしまっていたでしょうね。



1  |  2  |  3  |  4  |  5