OUTSIDE IN TOKYO
Denis Villeneuve INTERVIEW

ワン・ビン(王兵)『三姉妹~雲南の子』インタヴュー

4. 私が映画を撮るということは、目の前の、私が撮ろうとした人物を生き生きと撮るということ

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OIT:そうして、村人に対してもそうですが、監督たちの存在は段々と透明になれていくものなのですか?
WB:完全に透明になるというのはどうしても無理なので、なるべく生活に影響を与えないようにしましたが、結局その影響はもちろんありますよね。ですから透明ではありません。たとえば妹が泣くところがあります。2番目の妹が下の妹をぶったりして、下の妹が泣いてしまいます。でもそういう時にカメラがいるとカメラの方をちょっと見てしまうんですね。カメラがここで撮っているということを分かってちょっと笑ったりします。そして泣き止んだりするわけです。ですからカメラも彼女たちの生活の一部になっていっているわけですね。そういうわけで、私はカメラの存在を無理に消そうとは思いませんでした。それも生活の一部なのです。編集の時も、カメラの方を見ている時の表情を無理に消してしまうようなことはしませんでした。

OIT:タイトルにもなっている“三姉妹”は元々チェーホフの「三姉妹」を意識されていたのですか?
WB:もちろん、チェーホフに「三姉妹」という作品があることは知ってはいました。でもこのタイトルをつける時にわざわざチェーホフのことを思い浮かべたかというと決してそうではありません。“三姉妹”というのは普通の名詞なので、別にチェーホフの作品に「三姉妹」とついているからこれをつけたとか、そういうことでは決してないのです。「三姉妹」がチェーホフの作品(のタイトル)についているからといって、私の作品にタイトルとして使ってはいけないこともありませんし、それは誰が自由に使ってもいいものだと思います。

OIT:最後の質問になりますが、この映画は今現在の中国の状況に対して監督が提示しなければいけないという思いから出しているものですか?それはたとえば、子供たちの関係も、村人との関係性の中で何らかの役に立たなければいけないとか、(そもそも我々の)人付き合いも、自分の役に立つかどうかで始まったりもしますよね。一般的に。そういった微妙なことも感じとれたのですが、そういったことも含めて現代の中国に照らし合わせることはできますか?
WB:そうですね。私が映画を撮るということは、目の前の、私が撮ろうとした人物を生き生きと撮るということです。『三姉妹~雲南の子』で言えば、彼女たちの心の世界になるべく近づいて撮ることでもあるわけです。そしてまた彼女たちが生きているこの地区、この地方の生活を観客に観てもらうこと。映画を撮るということはその人物のある経験を撮ることです。人生の経験を撮るわけですから。その経験を人に伝えることが映画には出来る。でもそれを伝えることで、映画を観る人と分かち合うことはできるけれど、たとえば、そこの生活を変えられるかどうかとなると大きな疑問符がつくわけです。しかし彼女たちの生活を観て、観客が考えるということ、彼女たちの経験を分かち合えるということだけは映画にできることなのではないでしょうか。


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