OUTSIDE IN TOKYO
DIRECTORS'TALK

アモス・ギタイ監督特集 越えて行く映画
アモス・ギタイ監督による解説とQ&A

第11回東京フィルメックス、及び、東京日仏学院で行なわれたアモス・ギタイ監督特集上映<越えて行く映画:第1部・第2部>の上映前後に行なわれた、監督による作品解説、及び、観客とのQ&Aの採録を掲載します。
2010.12.24 update

同時通訳:藤原敏文
採録、文責:上原輝樹

第1部@フィルメックス

<亡命三部作>
『エステル』
『ベルリン・エルサレム』
『ゴーレム、さまよえる魂』
2010.12.24 update

<最新作>
『幻の薔薇』 2010.12.27 update
第2部@東京日仏学院

<イスラエル現代三大都市三部作>
『メモランダム』 2010.12.27 update

<ユートピア崩壊三部作>
『ケドマ』 2010.12.27 update
アモス・ギタイ監督特集 越えて行く映画:第1部・第2部 2010.11.22 update

『幻の薔薇』



<上映後のQ&A>
Q:この物語を題材としてとりあげた理由をお聞かせ下さい。
A:エルザ・トリオレという原作者の文章に非常に興味があったからです。彼女は、ナイロンの時代という大きなタイトルでくくられる三部作で二つの大きな戦争を経たヨーロッパを描こうとしています。戦禍に関しては日本も同じことだと思うんですけど、本当にヨーロッパの大陸は二つの戦争で痛めつけられてしまった、傷ついてしまった。何十万、何百万もの人が大変に暴力的なやり方で殺された。その後では人々は理想主義のようなことに対して聞く耳をもたなくなってしまって、ひたすら消費行動に自分を埋没させようとした。多分、私たちは未だにそういう時代の中に生きているんだと思います。それはおそらく日本でも同じことだと思います。日本もまた第二次大戦で大変に暴力的な体験を味わい、辺り一面が焼け野原になったような時代を経たその後では、やはり人々は大きな理想を考えたりするより、むしろお金を儲けて消費活動の中の小さな幸せに生きがいを求めていった時代があったのだろうと思うのです。そういった時代の中心になる女性の人物を描くことで、その時代そのものを描こうとした作家だと思います。そういった中でヨーロッパにしてもあるいは日本にしても、大地そのもの、土地そのものを非政治化してしまう流れというものが今でも続いていますし、それはおそらく二つの大きな大戦の被害によって始まった事だと私は思っています。
Q:フランスが舞台ということでトリュフォーとかあるいはイタリアの監督ロッセリーニのタッチを非常に感じました。監督は建築学出身ということで、例えばコルビジェであるとか、当時の建築スタイルやインテリアについて、かなり注意を払って、苦労をして作られたのではないかという気がしました。ヒッチコックの『裏窓』みたいなシーンもありましたし、窓の向こうの人達が結構動いてたりだとか、そういう繊細なシーンの積み重ねっていうのが特徴だったような気がします。その辺の話をちょっとお聞かせ下さい。
A:今2点ほど非常に大事なことを仰って頂いたんですけど、まずヒッチコックという名前のことで言えば、これはヒッチコックではなくルイス・ブニュエルに見えるということだと思うんですけど、彼らの景観の大きな特徴は外国人として撮っているということにあります。ルイス・ブニュエルにしても彼の作品にはいくつかピークがありますけど、一番大きなピークは彼がフランスで撮っていた映画です。例えばブニュエルが初期にスペインで撮っていた作品は、視覚的な芸術家として活躍していたという感じだったと思うのですが、彼がフランスで撮り上げた時は、鋭い目線でフランスの当時のブルジョワジー社会を描く作品をいくつも撮っています。例えば『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』であるとか『欲望の曖昧な対象』であるとか、そういった作品を彼がなぜ作ることが出来たかというと、彼が外国人であるからこそ、ある種一定の距離をもってその社会を見る事ができて、それ故の明晰さがああいった映画を可能にしているんだろうと私は思います。それはヒッチコックも同じことが言えると思います。彼のイギリス時代の作品というのは、どちらかというとまだ物語を中心に物語を説明するために映像を作っているような作品だったのが、アメリカに移ることで、ヒッチコックのピークもアメリカ時代にあるわけですけれども、アメリカという国家の持っている全体像とその輪郭を非常に抽象的に引き出すことによって極めて優れた作品をものにすることが出来たんだと思います。もちろん自分の国を離れるということには様々な理由があります。ブニュエルの場合はスペインの独裁体制が始まったからで、ヒッチコックの場合は、第二次世界大戦が始まったのでイギリスを離れてアメリカに移った。どのような理由があるにせよ、そこで自分の国にいることが難しい状態になった時、どこか他に行くべき場所を探してそこに移ることができる。その移った時にそれまで自分が作ってきたもの、更に延長としてなおかつ新しい土地でどのような建築があるのかを見て、その中でどのような物語が可能であるかということを構築していくということは非常に興味深い体験になりうる場合があります。
Q:もしかしたら勘違いかもしれないんですけど、この映画の台詞を聞いていてジャン=リュック・ゴダールのヌーヴェルヴァーグを思い出しました。それは言葉が空間にどのように置かれていくか、それがどのような次元でおかれているか、どのような時間を使って監督が物語を語られているのか、といったことに興味を持ったのですが。
A:もちろん当然のことながらこの現代で生きている映画作家としてジャン=リュック・ゴダールという存在を忘れるわけにはいきません。20世紀の最も重要な人物の一人であり、当然フランスで映画を撮るということになればなんらかの形でゴダールの映画との対話ということが起こると思います。それはまた、エリック・ロメールについても言えることで、この『幻の薔薇』の前半の最初の方に出てくる比較的ルーズな形の撮り方のシーンは明らかにロメールとの対話ということも、ある程度言えるんだろうと思います。もうひとつ重要なことは、この映画の場合もまた、基本的に長回しでワンショットで撮るという形で進めていまして、それは原作小説の一つの章が一つのシーンに当てはまるような撮り方をしています。そういった撮り方をやる中で非常に今回重要だったのがエリック・ゴーティエという素晴らしい撮影監督です。エリック・ゴーティエというのはフランスの撮影監督ですが、例えばショーン・ペンの監督作品『イントゥ・ザ・ワイルド』を撮影していたり、あるいはアラン・レネ監督の最新作を撮影していたりする非常に優れた撮影監督で、彼の参加が今回の映画にとても重要でした。また一方でフランスの非常に才能のある俳優や女優達と働くことが出来、それも非常に幸運なことでしたし、中でも主演のレア・セドゥと一緒に仕事ができたのは大変楽しいものでした。
Q:監督はマルジョリーヌのような人物は二つの大戦が生み出したように語られていましたけど、観ていて私はフローベールの「ボヴァリー夫人」を何となく連想したんですけど、その辺は監督の意識にはありましたでしょうか?
A:やはり一つ大きな違いがあるのはマルジョリーヌの場合は、彼女が求めているのはあくまで新しいもの、近代的なもの、現代的なものを求めているというところが大きな違いであると思います。それは先ほど建築に関することでも指摘させて頂いたことだと思いますけど、むしろ現代的なもの、あまりごてごてした装飾性、ゴシック的なものではなく、直線でデザインされたそういった現代性の空間というものを求めるというのは、この映画の中でも、とくに後半で注意したところでもあります。それは彼女だけでなくダニエルの人物像についても言えることだと思いますけど、彼もまたある種フランスの田舎貴族のような家族から離れたいという欲求があり、父親が昔ながらの有機農法的なバラの栽培を考えているのに対して、ダニエルは最新の化学、当時流行った遺伝子研究のやり方で新しいやり方でバラを作ろうとしているという面があります。マルジョリーヌはダニエルよりさらに極端に新しいものへの欲望というものをむき出しにしているんだと思います。彼女は根本的に現代的な人物なんだと私は思います。もう一つ指摘しておきたいのが、エルザ・トリオレがこの小説を書いたのは1953年の終りから1954年の頭にかけてということです。つまりシモーヌ・ド・ボーヴォワールが「第二の性」という本を出版することでフェミニズム運動が大きく起こるそれよりももっと前に既にこういうことを考えて書いていた、しかも、結果としてエルザ・トリオレが書いたこの小説は、このテキストというのは今の世界においても非常に重要な反響をもって今でも響いているものだと私は思います。それはフランスに限った話ではなく、間違いなくこの日本でも同じことが言えるでしょうし、中国に行っても同じことが同じような女性が今でもいるのだろうと思います。
Q:監督に解釈の仕方を聞くのは非常に愚問だとは思うのですが、最初に質問された方に対しての答えから聞くと、どうもヒロインは消費社会の犠牲者なのかしらという風に思いながらも、何となくヒロインの(エンディング・シーンでの)歩き方からすると、逆にサバイバー、現代にまでああいう風に彼女が生き残っていると解釈したのですが、監督の考えをお聞かせ下さい。
A:私から見ると彼女は犠牲者であるのか、それを生き抜いた人であるのかよく分りません。彼女はむしろ消費文明の積極的な参加者で、だいたいその消費文明には大衆がそこに参加しなければ絶対に成立しないものであり、人々の間の欲望として何かを忘れたい、忘れるためには消費することに自分が没頭したいという気持ちがあるからこそ、そういうものが成立しているんだと思います。彼女はその中の一員であると私は考えたような気がします。しばしば人間は記憶の大切さということにこだわりますけれども、しかし人間が生きていくためにはもう一つ忘れるという事、忘却というのも非常に必要なことであると思います。


『幻の薔薇』

出演:レア・セドゥ、グレゴワール・ル・プランス、ピエール・アルディッティ、アリエル・ドンバル、ヴァレリア・ブルーニ=テデスキ

フランス/2010/113分/35ミリ/カラー/日本語字幕付