OUTSIDE IN TOKYO
TALK SHOW

アンドレス・ドゥプラット『ル・コルビュジエの家』トークショー

2. 私達も中の上というクラスに属していると意識していますから、やってる事は自己批判と等しい

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Q:本業は建築家なのに、どのようにして脚本を書き始めたのでしょうか?
AD:大学は建築学科を卒業して建築家として、そして現代アートのキュレーターとして色々なラテン・アメリカの美術館で展覧会とかキュレーションを行っていました。その中で現代アートに焦点を置いていたのですが、日本も同じだと思いますが、現代アートと一般の人達との距離が、かなり隔たっているところがあるのです。それを埋めるために自分が今まで経験した事を、自分の視点から現代アートというものを介して表現しようとする事で、何かを書こうと思ったのです。その時にエッセイではなくて、たとえエッセイで書いて出版してもおそらくエリートの人達が100人くらいしか読んでくれるだけだろう、もっと広がる表現方法は何だろうという事で、アイデアを弟のガストン・ドゥプラットとマリアノ・コーンに話したところ、じゃあアイデアが面白いから映画にしようという事になり、彼らの長編第一作目の劇映画『El artista』(09)という映画が出来ました。それが初めて私が脚本を書いたものでした。その『El artista』という一本目の映画が、国内外で色々な賞を受賞しまして、そこで二人の共同監督と私とのトリオでもう一本撮ろうではないかという事をプロデューサーが提案しました。二本目である本作『ル・コルビュジエの家』は一本目とは全く違うんですけれども、それでまた三人が集まって撮る事にしたんです。一本目を撮った時は、自分の声を映画で表現したかったんです。でも本作の場合はエピソードからそれをドラマにしていく事を学びました。彼らは今三本目を撮って、今年の末に四本目の撮影に入ります。ですから凄くいいリズムで撮り続けているんですけれども、その中で私が言いたかった事は、自分は脚本家ですけれども、どこの世界でも脚本家っていうのは映画産業の中で一番貧乏で、一番意見を言わせてもらえない立場にあると思います。でも私は幸運にも、一番初めのアイデアから最後のファイナルカットまで、キャスティングもですが、全部口を出させてもらいます。というのは、私は編集のプロセスとか、映画製作という事が“文学”だと思っているからです。ですから元々脚本を書くという事は、それを売って終わりではなく、そこから、ちゃんと映画に関わって最後の最後のファイナルカットまで自分で見届ける、そういう事が出来ている事が自分にとって本意だと思っています。
Q:一作目はいつ作られたのですか?
AD:2009年です。これ(『ル・コルビュジエの家』)は2010年です。2011年にやったのが、『愛しい君、僕は煙草を買いにいってすぐ戻るよ/ Querida voy a comprar cigarrillos y vuelvo』っていうタイトル(笑)。今、それで四本目を撮っているんです。『愛しい君、〜』では、アルゼンチンの作家アルベルト・ライセカが新たに書いた10ページぐらいの未発表の物語(『Cuento Inédito』)をもとに、脚本を作って映画を作るという文学者との共同作業も行っています。私達は、日常生活の中の問題、自分にとって興味のある問題から映画を作っているんですけれども、その『愛しい君、〜』はまるで本当に文学者の中の宇宙を映画にしたような形のものです。
この映画(『ル・コルビュジエの家』)の中で成功したと思うのは俳優のキャスティングでした。というのは、脚本自体が一人は非常に成功した方で、もう一人は全く違う正反対の性格を持つ二人なんですけれども、その二人の俳優を選べた事というのがこの映画の成功に繋がったと思います。まず一人を選んで次を選ぶというのではなく、二人一緒に選ばないとこのような二人の間のやり取りや反発、エネルギーの行き交いというのがなかったと思うんです。ビクトル役を演じたのは、テレビ業界でとても有名な俳優(ダニエル・アラオス)です。そして一方レオナルド役の成功者は、脚本家でもあり演出家でもある、舞台俳優(ラファエル・スプレゲルブルト)が演じています。ですから根本的なところから二人のキャラクターと合っていたっていうのが良かったと思います。私達の映画は強い批判を行なう時があります。ユーモアもありますけれども、どちらかというとブラックユーモアでとても皮肉です。自分達の事もそうなんですけれども、映画の中でレオナルド役というのは非常におしゃれな家に住んで美術品に囲まれ、デザイナーズチェアとかがある家に住んでる成功した人間なんですけれども、成功した彼というのはグローバルな資本主義の中で成功した人ですね、いわゆる中流の上の人です。そして一方ビクトルという隣人は、そこにはいないタイプの人間です。ですからこの中で、例えばビクトルがちょっとそれは大げさなんじゃないかと思うような事も、私達も中の上というクラスに属していると意識していますから、やってる事は自己批判と等しいと自分達は思っています。内部からの批判という視点もあります。隣の男性が全く違う外部から来た時に、自分がそれに応えられない、それを理解出来ない、そういう事も批判しています。この中で私達が表したかった事っていうのは、そういう全く違う相手をなかなか理解出来ないという時に、自分達が何に頼っているのかという事を表現しています。日本でもそうだと思いますけれども、映画の世界というのはみんなクリシェというか、一つの均一的な見方、地域だったり国だったり、それに対して世界の中心は、例えばアメリカ合衆国なのだと思いますが、ラテンアメリカはこうだろう、日本はこうだろう、東洋はこうだろうという決めつけを行なってきたというのがあります。それはアメリカで成功するためというか、認められるためでもあるわけですが。例えば、ラテンアメリカといえば子供がリボルバーを持ってるとか、貧困とか、そういう事がテーマにされてきました。それが非常に均一的な見方だという事を私達は常に言いたいと思って、自分達の身近にある物語で、そしてそれが自分達ラテンアメリカだけではなく、日本でも中国でもどこでも起こりうることをテーマにしたいと思っていました。一般にいうアルゼンチンシネマと呼ばれる映画、私達が携わっている、進めていこうとするものは、どこの世界にも共通な問題、お互いに分かり合える問題、そして今ある既成概念を打ち砕くために自分達は映画をやっています。『ル・コルビュジエの家』のような隣人問題は東京でもニューヨークでもローマでも起こりうることで、世界のどんな人でも分かって頂けると思います。もちろんラテンアメリカのアートの中に凄い暴力的なものがあるっていうのは確かですし、実際に存在することも確かですが、私自身は武器を持ったこともないし、暴力沙汰にあったこともありません。(紋切り型が氾濫する)そういう中で全く違う見方を表す映画を自分達は作っていきたいと思っています。


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