OUTSIDE IN TOKYO
TALK SHOW

アンドレス・ドゥプラット『ル・コルビュジエの家』トークショー

4. 自分達に対する批判というのはユーモアを介さないと固いものになってしまうので、
 ユーモアをそこに入れることによって、自分自身の仮面も剥がれると思っている

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Q:『ル・コルビュジエの家』、凄く面白かったです。ユーモアのセンスがとても良かったと思います。他の国の映画だとまず感じることが出来ないような笑いのセンスを感じ取ることが出来ました。その特殊性というものを自分で意識されて作っているのか、あるとすればそれはどこにあるのでしょうか?
AD:私自身どこにそれがあるのか分かりませんけれども、先ほども言いましたように私達の映画というのは常にユーモアを考えて、ユーモアを讃えています。それはブラックユーモアの場合もあるんですけれども、自分達の中でユーモアというのは知性の一つだと思っています。そのユーモアで一つの要素を遊びながら、そして何が足りないのかその批判をユーモアにくるんで出していく、そういう事が私達が映画の中でいつも考えている事です。これも先ほど言ったんですけれども、自分達の社会的クラスというか、中の上の人達を笑っている、自分達に対する批判というのはユーモアを介さないと固いものになってしまうので、ユーモアをそこに入れることによって、自分自身の仮面も剥がれると思っています。ですから外から言うのではなく、自分達の中から自分達を批判するというところで、ユーモアは自分達にとって欠かせないものです。この映画の中でもレオナルドが本当に時々嫌なやつですよね。友達を食事に呼びながら、その後あいつは馬鹿じゃないかと批判したり、現代音楽を自分だけが分かっていると思いながらビクトルのハンマー音を音響効果と間違えたり、凄いデザイン過剰な物を飾っていたり、そういうところに私達の自分達に対する皮肉を色々入れています。
Q:色々な才能があることにびっくりしているんですけれど、まず建築家であって次にキュレーター、それで脚本家ですよね。それでこの『ル・コルビュジエの家』という脚本を作って、映画を作って、自分自身を問うてもいます。そうしたことは、建築やキュレーターの仕事にどういうような影響を与えるのでしょう?
AD:どちらかというと自分の仕事への影響は、その後ではなくて前というか、作りながらお互いに影響します。建築家であり現代美術のキュレーターとしての自分の職業もこの映画に影響を与えているし、そしてこの家は自分が生まれた所からほんの200mの所にある家なんです。それに関して私は建築家としてこのクルチェット邸に関する本や記事も書いています。そういうことから、非常に自分の中では近しいもので自分がとてもよく知っていることなんです。そしてそこから作っていく中で、映画としての要素とか、相互作用とかっていうのが出てくるんですけれども、自分がとてもよく知っているものをどんどん掘っていくと、また知らない部分も出てきますし、後でそれは全部破壊してもいいんですけれども、一番よく知っていることを中心に置くことで、こんなことがあるのかという驚きとか、そういう要素が出てくる。先程申し上げたライセカという文学者も、文学を書くのなら自分が一番詳しく知っていることを書けと言っています。それが後で壊れることになったとしても、まずそこから出発点として始めるということ。私はだから作っている中で自分の中の要素がお互いに色々影響しあったと思っています。
Q:ビクトルという隣人は壁に穴を開けたと書いてあるんですけど、そういう人はあまり高級住宅街には住んでないと思うんですね。私だったら警察に電話してすぐにそれは終わっちゃうと思うんですけど、ビクトルという人はどうやってそこに住むことが出来たのかなって、疑問を感じたのですが。
A:それは普通にあることです、この対立というのが金持ちと貧乏人ではなく、ビクトルは別に貧乏人でもないわけで、このラプラタっていう街は60万人くらいの街ですので、金持ち地区とかですね、そういうのが丸っきりないというのもありますけれども、普通に色んな人が住んでいるっていうことがあるのです。それは別に映画のための作りごとではなく、普通にあることです。そしてビクトルも何をしているか分からないけれども、でもあの家に住んで、そして改装しようとしているので別に貧乏ではないです。だから私達が考える時に金持ち対貧乏っていう形ではあまり考えてはいません。

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