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現代フランス映画を代表する俳優のひとり、メルヴィル・プポーの特集上映<誘惑者の日記>(6/22〜7/8)が行われてからまだ2ヶ月しか経ってないというのに、あの真直ぐに凛と伸びた佇まいの印象をそのままに、映画について、ラウル・ルイスについて誠実に語り、多くの観客を魅了したメルヴィル・プポーと短い時間を共にしたことが遥か昔のことのように感じられる。きっとそれは、映画俳優という”夢”のような仕事を職業に持つ男との時間であり、”夢”そのもののようなラウル・ルイスの映画が生み出した、虚構の世界だけが持つ、素晴らしい”軽さ”ゆえのことなのかもしれない。そして、今再び、ラウル・ルイスの作品群に出会うことのできる特集上映<ラウル・ルイス特集 フィクションの実験室>が始まろうとしている。ここに、ラウル・ルイス特集上映の予習とプポー特集上映の復習を兼ねて、6月25日の『犯罪の系譜』上映後に行われたメルヴィル・プポー トークショー(聞き手:坂本安美さん)の採録を掲載する。
(上原輝樹)

1. 我々は輪廻する、我々は一つの人物というものをこの世で生きてるわけじゃない
 (ラウル・ルイス監督の持論)

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坂本安美(以降:SA):(『犯罪の系譜』は)素晴らしい始まりでしたね、ジャンル映画の始まりという感じで、わくわくさせられ、ジャンルでいうとスリラー、ラウル・ルイスなりのスリラー映画でしたね。この作品を私は公開時にパリで観てとても魅惑されながらも何だこれはと、ラウル・ルイスさんの作品を初めて観たのはこの作品だと思うのですが、魅惑されながらも何か分からないまま出てきた覚えがあるんです。今もう一回見直したところで、入り口のたくさんある、遊び心もある作品であることに気づかされたのですが、この映画が撮られた年っていうのが96年だったと思いますけれども、ちょうどその時期に日本で上映された作品で『CURE』(97)という作品があります。皆さんご存知の方多いと思いますけれども、黒沢清監督の『CURE』ですね。今思い返すとこの 『CURE』と『犯罪の系譜』(96)がほぼ同じ時期に撮られたというのを今回見直して気付きました。両方とも催眠療法というか、目の前にいる人の無意識の部分に呼びかけてそこで殺人が起こります。全く作風は異なりながら、この2本が同年に撮られたことに興味を持ちました。多分メルヴィルさんは『CURE』 をご覧になってないので、そこを比べてほしいというわけではないのですが、なぜラウル・ルイスがこの時期にこのテーマを撮ろうと思ったのかというあたりを、もしご存知だったら教えて頂けますか?
メルヴィル・プポー(以降:MP):この映画はラウル・ ルイスがゲーム感覚で作り始めた映画なんです。ロールプレイングゲームです。ラウル・ルイスの映画にはよく出てくるテーマなんですけど、ロールプレイングゲームの特徴っていうのは一人のプレイヤーが一つの役割を演じるのではなくて、複数の役割を演じるんですね。『犯罪の系譜』以外にロールプレイングゲーム の特徴をよく活かしてあるのが『宝島(Treasure Island)』(未公開/85)です。『宝島』では、仲間達が毎年集まって“宝島”というゲームを興じるのですが、その度に毎年毎年その人達の役割というのを変えていくんです。そういうゲーム性が『犯罪の系譜』の中も同じように見られますね。カトリーヌ・ドヌーヴが母親を演じたり、僕の伯母さんを演じた り、あるいは精神分析医を演じたり、役割を三つくらい演じているわけです。これはラウル・ルイス監督の持論ですけど、我々は輪廻する、我々は一つの人物というものをこの世で生きてるわけじゃないという、彼の考え方が出ていますね。
SA:そこでラウル・ ルイス監督について最近のインタヴューでメルヴィルさんが俳優の演技というものに対して三つのセオリーがあるという話をなさっていらっしゃいますけど、その役自体もそうだけれども、演技というものに対するセオリーがそこに繋がってくるということはありますか?
MP:ラウル・ルイス監督は色んなセオリーを持っている人です。とても有名な彼の映画に関する著作「映画の詩学1、2」(未訳)という映画理論の著作がありますけれども、ハーバード大学でも教鞭をとっていましたし、映画の理論家だったのです。時々、自分の持ってるセオリーを自分の映画で実践してみるわけです。パリのある日曜日の午後、自分のビデオカメラで、自分の持っている頭の中にあるセオリーをビデオカメラで映画にしてみせる、そういう感じですね。新しい実験を常に行っている研究者のような、そういうイメージを僕は監督に対して抱いています。俳優の演技についてのセオリーですけれども、 台詞の状況の中でそれぞれの人物が自分の中に三つの役柄を内包しているというセオリーです。一人の人物は、まず自分はこういう人間だと思っている、次に他のみんながイメージするまた別の彼がいる。でも本当の彼の心の底の本性は、もっと動物的な本能を持っている奥の深い自分がいるわけです。ちょっと食べ過ぎたなとか、おしっこしたいなとか、もっと動物的な本能で生きている自分というのを解放しているわけですね。 だからそういう意味では二人の人が対話をすると一人の中に三人いるわけですから、六人の人が対話しているみたいになりますよね。なので二人の人物の三人のパーソナリティっていうのが対話してるのを彼は日曜の午後に自分のビデオカメラを持って映画で撮るということです。その結果、セオリーの行き着くところはいつも冗談なんです。彼自身が自分のことを凄く偉い人間だとか、賢い人間だとか思っているわけではなくて、自分の教養とか文化とか色々なアイデアを本当に一番ばかばかしいジョークの為に動員している、そういう風な人でしたね。役者にとっては凄く居心地の悪いもんですよ。役者っていうのはあんまり頭の能力が優れた人達でもないので、ラウル監督の撮影現場には色々な俳優たちが先入観を持ってやってくるわけですよね、ここはちょっと俳優として、いいところを見せてやろうって感じで現場に来るわけですよ。そうすると、監督は俳優とは全然関係ないところをトラベリングで一生懸命撮ったりして、俳優の期待っていうのを少しずらすわけです。それこそがラウル監督の狙っていたところで、そういうことをすると俳優達はやっぱり少し面食らってしまって、自分のやりたいことをやれなくてぽかーんとしたりする、そういうところを彼は取り込むんですね、それがラウル・ルイスの世界になるわけです。例えばトラベリング撮影の途中に俳優が座っても、そのトラベリングがそのまま移動していたりとか、もう一つは彼の周りにもう一つの移動撮影のトラベリングがオブジェを乗せて移動していたりとか、その三つ目のトラベリングにようやくカメラが乗っかってそれを映しているとか。ある時など、撮影監督がちょっと嘔吐しちゃったんですね、あまりにもぐるぐると回ったもので(笑)。


メルヴィル・プポー
 『ミステリーズ 運命のリスボン』
 インタヴュー


メルヴィル・プポー特集
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