「未来の巨匠たち」瀬田なつき特集上映:イベントレポート

1月23日(土)@シネマ・ジャック&ベティ上原輝樹
2010.1.25 update
特集上映「未来の巨匠たち」の初日、素晴らしいと評判の瀬田なつき監督の作品をスクリーンで見るために、「シネマ・ジャック&ベティ」に足を運んだ。長編『彼方からの手紙』(07)の上映時間には間に合わず、短編映画『とどまるか なくなるか』(02)も終盤にさしかかっているところで会場入りしたのだが、ジャック・ロジエ特集、『ユキとニナ』、『Dr.パルナサスの鏡』の公開初日という映画好きにとっては競合ひしめくこの日にあって、立ち見客まで出る盛況ぶりには正直言って少し驚いてしまった。

瀬田なつきの短編作品
mirai_report05.jpg『とどまるか なくなるか』で、私が最初に目にしたのは、中学生の少女が、自分の左右の頬を自らの拳で殴りつけるシーン。さらに少女は、素足で住宅街の路上に立ち、その足で空き缶を蹴る。同性の監督だからこそ出来る、遠慮のない演出が可能にした残酷さと美しさが同居する瞬間。その点でルシール・アザリロヴィックの『エコール』(04)を少し連想した。

『港の話』(06)は、藝大で黒沢清教授に与えられた"今、そこにある差別"というテーマに応じて作られた作品。15歳で恋人の女性と共に強盗殺人事件を引き起こした兄を持つ弟とそのガールフレンドの話。10代前半にして人生に大きなマイナスを抱え込んでしまった弟は、その友達以上、恋人未満な雰囲気のガールフレンドに淡い恋心を抱いている様子だが、彼女の方はいつもつれない。弟は、兄が起こした事件について彼なりの世間に対する贖罪の気持ちがあり、テレビ局のインタヴューを受ける。その放送を、ガールフレンドと一緒に見ていた弟だったが、事実を曲げて報道する番組映像を見て、怒り狂いテレビを蹴り飛ばす。その拍子にヒューズが飛んだ部屋は真っ暗闇に。怒りと闇の果てに、眩しい日差しが差し込む朝を迎えたふたり。彼女の口から、兄と共に強盗殺人を犯した兄の恋人の素性が明かされる。見るものを襲う、心地よい驚き。それが、ある港の話。スコーンと抜けるような、軽量級なエンディングシーンが素晴らしい。何の罪もない犯罪者の弟が社会から受ける"差別"という重いテーマを、短編の尺に見事にまとめあげた力量と全編に漂うゆるくない独特の空気感が際立っている。

『むすめごころ』(07)は、川端康成の原作を映画化したオムニバス『夕映え少女』の一遍とのことで、DVD化もされているので、ここでは詳しく触れないが、昭和初期、第二次大戦前夜の日本という時代設定に見事に対応、美しいデジタルな彩色の映像美に溢れた小品。日本家屋で柏原収史が山田麻衣子に結婚を迫り、複雑な"むすめごころ"からこの申し出を断る一連のシーンのキャメラワークと編集のリズムの素晴らしさに瀬田なつきのストーリーテラーとしての卓越したセンスが見て取れる。そして、ヌーヴェル・ヴァーグへのオマージュの如き土手の並木道をふたりの少女が駈けていくシーンも、前述の時代設定の中でとても新鮮に写る。

そのふたりの少女がヌーヴェル・ヴァーグの土手を駆け抜けて、時空の壁を飛び越えると、そこは2095年の東京だった、、、わけではないのだが、『あとのまつり』(09)は、この日本の地で全く新しく更新されたヌーヴェル・ヴァーグの意匠が全編に息づく、瀬田なつき監督の最新作。この作品が長編だったら、ジャン=ピエール・リモザンの『NOVO』(02)に匹敵する衝撃を世界に与えていたのかもしれない。映画は、今日、4本の短編を見ただけでも明らかな瀬田なつき的主人公、すなわち、素足の美少女の登場によって始まる。いつの頃からだろうか、日本映画において、家屋の中でスリッパを履いた登場人物が当たり前のように跋扈するようになったのは。来客などがあって、改まった席ならともかく、日常的にはスリッパってあまり履かないのでは?としばしば抱いていた小さな疑問を吹き飛ばしてくれる瀬田映画の主人公たちが素晴らしい。

『あとのまつり』の時代設定は、現在、そして、2095年の東京。その街では忘れてしまうことが日常となっていて、だから、彼女たちは、忘れることも忘れられることも恐れないように、挨拶は「はじめまして」にしている、という物語の設定が面白い。だからといって、"愛"という言葉がなくなった未来を舞台にしたゴダールのSF文明批判映画『アルファビル』(65)が、"愛"の不在を通して"愛"を描いたように、"記憶"の喪失を通して"記憶"にまつわる様々な人間の愛しさを描くわけでもなく、クリストファー・ノーランの『メメント』(00)のように、5分毎に失われていく記憶をストーリーの原動力にして、見るものを時間強迫症的なサスペンスで追いつめるわけでもない。むしろ、『あとのまつり』では、"忘れてしまう"ことの恐ろしさよりも、お互いに傷つかないように"挨拶は「はじめまして」にしている"とってもナイスな気遣いがコミュニケーションにおける保険として担保されているところが、現在のリアリティを上手く寓話化していて面白い。ダンスシーンは、ヌーヴェル・ヴァーグの傑作『女は女である』(61)や『はなればなれに』(64)の伝説的なダンスシーンに遠く及ばないが、風船の飛翔に関して言えば、『赤い風船』(56)の子どもに寄り添う友達として擬人化された風船の存在を遥かに凌ぎ、風船の本質である"バブル"がエンディングシーンでその本性を露にし、ナイスな気遣いの行く末として、あっけなく破裂してしまう、その世界感は明白に21世紀的であると同時に藤子不二雄のSF短編小説の世界を貫く倫理性をも感じさせる。美しい瀬田なつき的美少女が、完全にアップデートされたヌーヴェルヴァーグ的意匠を身につけ、19分間を、美少年と共に、時に野原で寄り添いながらも踊りながら駆け抜け、最後にはパンッと破裂してしまう、アバンポップの傑作映画『あとのまつり』には、確かに"未来の巨匠"の作品と呼びたくなるような唯一無二の輝きが宿っている。



トークショー:瀬田なつき(監督)×井口奈巳(監督)×梅本洋一(映画批評)
それにしても"未来の巨匠たち"とは、いかにも大仰なタイトルだという違和感は、多かれ少なかれ誰もが感じた事に違いないが、瀬田なつきの作品を見るにつけ、それもあながち大袈裟ではないかもしれないという思いが、ふつふつと込み上げてきた。とはいえ、作品上映後のトークショーで、瀬田自らが、このタイトルの考案者であり、かつての恩師でもある梅本洋一に「イベントのタイトルが恥ずかしいので、友人に話をする時にとても困りました」と苦言を呈したのに対し、梅本は、実はこの企画のタイトルは、たまたま見ていたTV番組(堺正章の料理番組「チューボーですよ!」)のワンコーナー「街の巨匠」から拝借したものだと自白。その「街の巨匠」コーナーでは、"未来の巨匠"と称される若い料理人たちが、野菜を切ったり、肉を捏ねたりして、ひたすら料理の下ごしらえをしているのだという。"未来の巨匠"を夢見て、ひたすら修行に勤しむ若い映画作家たち。このエピソードを聞くまでは、今ひとつ腑に落ちなかったものが、ストンと腹に落ちた瞬間だったが、この梅本洋一の愛のある"大言壮語"、それ程大袈裟に響かなくなる日が近い将来やってくるのかもしれない。それには、トークショーの終盤に語られた、現在の日本映画に蔓延する"マーケティング映画"がある程度駆逐されて、小説やマンガの安易な映画化ではなく、映画ならではの表現とテーマを持ち、見るものの時間を消費するに値する作品が劇場で普通に見られるという状況になっている必要はあるように思う。井口奈巳の『犬猫』(04)は見た私でも、マーティング戦略が見事に効を奏した結果なのであろう、30代未婚女性をターゲットにマーケティングされて、興行的に勝つべくして作られて勝った(のか?)という『人のセックスを笑うな』(07)に関しては、見事に見逃しているわけで、、、



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