上原輝樹
「この映画をフランスに捧げる」という献辞から始まる、サミュエル・フラー、1957年の作品『チャイナ・ゲイト』は、「300年以上前にフランスの宣教師たちが訪れて以来、フランス植民地下のインドシナは、アジア有数の稲作地帯として栄えていた。しかし、その繁栄は、1941年、日本軍の進駐を機に一変した。1954年、日本が降伏すると、インドシナの革命家ホー・チ・ミンが中国共産党の力を借りてベトナムを掌握、北部でベトナム独立同盟会(ベトミン)を組織した。朝鮮戦争の終結後、フランス軍は、共産主義のアジア侵略を防ぐために戦線を張る。北アフリカから呼び寄せた外国人傭兵部隊の仕事は、モスクワから調達される武器の遮断である、兵器は中国門(チャイナ・ゲイト)近辺の山中に隠されていた。ここに貯蔵された爆薬で共産党は北部の村を爆撃していたのだ。チャイナ・ゲイトから160キロの距離にあるサントイという村が最後の砦だ。物資を奪われ、弾薬も底をつき、村人は飢えと戦っていた、米軍が投下する救援物資が命綱だった。」という、この映画の舞台設定がナレーションによって語られていく。
この"日本軍"の登場に一瞬、虚を突かれるが、日本で今までこの映画が公開されず、フランスでは未だに一般公開されていない理由も、この辺の舞台設定にあるのだろう。もちろん、"チャイナ・ゲイト"自体は、ジャーナリスト出身であるフラーが、実態を調べ上げた上で、書き上げたフィクションに違いなく、この導入部分は、史実とフィクションをミックスしたものであることが、ナレーションの背景に流れる、当時のアーカイブ映像と破壊された街並の撮影されたショットが交互にモンタージュされていく映像のスタイルによって告げられている。そして、唐突に、「1954年 木曜日 朝10時」という日付を欠いた漠然とした時刻が示され、「動物はすべて食べ尽されてしまった、たった一匹を除いては」というナレーションと共に、アジア系の貌つきをした少年が、一匹の子犬を抱えて、画面に登場し、物語が始まる。
映画は、この混血の少年を、"見た目"に左右されず安心して暮らせるよう、"自由の国"アメリカに住まわせたいという母親リーア(アンジー・ディキンソン)の願いを原動力にして進んでいく。リーアの元夫であるジョニー・ブロック(ジーン・バリー)は、生まれたばかりの子どもの顔を見て、子と母親を捨て去っていったロクデナシだ。リーアには中国系の母親の血が流れており、そのため、子どもにその特徴が強く出たが、ジョニーは、そうした背景を知りながら、子どもの"顔"を見て、逃げ出してしまったのだ。そんな男が、チャイナ・ゲイトの武器弾薬庫を爆破する任務を担った外国人傭兵部隊のリーダーとして、この地に舞い戻ってきた。そのミッションを遂行するには、このサントイの村から160キロ離れたチャイナ・ゲイトまで、沼だらけの湿地帯であるジャングルを通り抜けていかなければならない。その困難な通路を熟知しているのが、夫に捨てられた後、密輸業者としてこの地で広く知られる存在となっていた"ラッキー・レッグス"、ことリーアだった。リーアは、この命懸けのガイド役を、息子をアメリカに送ることを条件に引き受ける。こうして、危険なミッションを担った同じチームのメンバーとして、リーアとジョニーは行動を伴にすることになる。果たして、任務は無事遂行され、子どもは"約束の地"に渡ることが出来るのか?
マックス・スタイナーの手を借りた、ヴァクター・ヤングの手による最晩年のスコアが、如何にも当時のハリウッド然としたフルオーケストラの華美な演奏で、"無防備都市"状態なはずの街の廃墟とは、あり得ないほど奇妙な不均衡を生んでいることには一種の倒錯的な楽しみすら覚えないこともないが、流石に、頻繁に挟み込まれる中華風のサウンドアレンジには気が削がれる。とはいえ、まさに、"ラッキー・レッグス"という愛称がぴったりの、アンジー・ディキンソンの"脚"が、シネマスコープの全面に映し出される瞬間が不意に訪れ、しかも、彼女は、いわば、"女スパイ"として、この戦争映画の影の主役であると同時に、人間ドラマとしては真の主役を担う活躍を見せてくれるわけだから、多少の古臭さなど気にしている場合ではない。そのリーアを、ロクデナシのジョージに対して徹底擁護する神父役にフランスの俳優マルセル・ダリオがキャスティングされていることにも注目したい。フラーは、『ゲームの規則』(39)によって人々に記憶されている俳優を、この作品にキャスティング出来たことを、"偉大なるジャン・ルノワールの映画"と繋がることが出来たとして、とても喜んでいるのだから。
サミュエル・フラーは、1954年にインドシナ戦争が終結してから、そのわずか3年後、資本主義と共産主義が熾烈な戦いを繰り広げることになる"冷戦"が始まったばかりの時期にこの作品を撮っている。そして、案の定、"赤"ならぬ、"反共産主義者"のレッテルを貼られることになったり、冒頭の献辞にも関わらず、"反フランス的"であるとすら見なされたりするわけだが、フラー自身は、この作品を通じて訴えたかったことを、以下のような率直な言葉で記している。
サミュエル・フラーは、ジョニー・ブロックが率いる外人傭兵部隊の中で最も知的な佇まいの男ゴールディを、当時全盛期を迎えていたはずのアメリカの国民的歌手ナット・キング・コールに演じさせている。そして、ナット・キングは、登場するやいなや美声を披露したかと思うと、その後、敵の兵士を殺傷する生々しい演技まで披露する。フラーは、自伝で、妻が子どもを産めない体であることを明かしながら、その時の複雑な心境をゴールディの役柄に投影したことを告白している。ゴールデイは、子どもと妻から逃げたジョニーを諌めながら、「お前があの子を置き去りにするなら、おれがあの子を米国に連れて帰るさ」というのだ。『チャイナ・ゲイト』は、非情なまでの"戦争映画"で知られるサミュエル・フラーの、熱く、柔らかい魂の赤裸々なまでの痕跡が残された映画だ。
『チャイナ・ゲイト』
原題:CHINA GATE
製作・脚本・監督:サミュエル・フラー
撮影:ジョセフ・バイロック
音楽:ヴィクター・ヤング
出演:ジーン・バリー、アンジー・ディッキンソン、ナット・キング・コールほか
CHINA GATE ©1957 MELANGE PICTURES LLC. ALL RIGHTS RESERVED.
1957/アメリカ/97分/BW/シネマスコープ
配給:boid
『チャイナ・ゲイト』は、『ショック集団』『裸のキッス』『ストリート・オブ・ノーリターン』『ベートーヴェン通りの死んだ鳩』とともに「サミュエル・フラー連続上映!」(2月20日(土)〜3月4日(金)、ユーロスペース)にて上映される。