揺れるカーテンを見つめながら呆然とする私を置き去りにして映画は終わった。こんな映画を映画として成立させてしまうキアロスタミは、やはりすばらしいとしか言いようがない。
これまでのキアロスタミ作品と大きく変わる何かがあるわけではない。どこまでもキアロスタミだと思う。ただ、私たち日本人にとって、本作が日本で撮られたということが、これまでのキアロスタミ作品とは決定的な違いをもたらしている。これは言語の問題によるところが大きい。
映画を観る時、そこに字幕があることで私たちの目はどうしても字幕に引っ張られる。そしてその字幕を追っている分だけ、スクリーンの画を観る時間が減ってしまう。画には監督が意図的に詰め込んだ情報が詰め込まれているわけで、どんどんと流れて行く画の全てを観るためには、本来わずかな時間も惜しい。字幕を追うことで、私たちが逃している画を観る時間は、実はかなりのロスになっている。そうした意味で『ライク・サムワン・イン・ラブ』は日本人がロスなく観れる最初の(そして恐らく最後の)キアロスタミ作品なのだ。
そのロスなし効果はオープニングシーンで早速効力を発揮する。猥雑なバーで、ひとりの女の子がケータイで話をしている。どうやら相手は彼氏のようだ。彼女が嘘をついているんじゃないかと疑っているらしい。トイレに行ってタイルの数を数えて来いと言われて、女の子はうんざりしている。長い会話になりそうだ。周りを見てみると、どこか玄人の香りがする人たちが多い。業界関係者?強面の人もいる。ごく普通の女子大生といった風貌の電話の主にはそぐわない場所だ。友だちと思わしき女の子もずいぶんパンクな格好で、電話の主とはタイプが合わない。押しの強い彼氏にハッキリものを言うことができず、ぐずぐずと電話は続く。おばあちゃんが東京に出て来るから今夜は会えないという話を、電話の向うの彼氏は信じられないらしい。以前にもウソをつかれたことがあるのだろうか。ずいぶんネチネチした男だ。携帯電話での会話という、相手の見えない状況でありながら、私たちは「会話」を頼りに後々姿を表す恋人のノリアキ(加瀬亮)についての輪郭を掴み、画によって電話の主である明子(高梨臨)について知る。明子はその無垢な見た目とは裏腹に、女であることを商売にしているようだ。
こうした長い会話とともに、映画はなめらかに滑り出す。やがて明子はタクシーに乗せられ、とある男の元へと送られるのだが、この車中のシーンがすばらしい。髪を束ね、濃いルージュをひく明子。携帯電話から流れる「待ってるから」というおばあちゃんの声。流れる涙。明子の子どものような不安定さと、全てをあきらめたような虚ろさが、車窓と車中が二重写しになった画に象徴される。そして、ここでもキアロスタミは電話を巧みに使って明子の輪郭を形作り、私たちに彼女の人生を示唆するのだ。
本作の登場人物は三人。明子とその恋人のノリアキ。そして、老齢の元大学教授・タカシ(奥野匡)。キアロスタミは三人に「演じるな」と言ったそうなので「いい演技だった」という言葉は不適切であり、そのため妙な言い方になるが、スクリーンに映る三人は三人とも非常によい。外国人が撮った日本というと、ソフィア・コッポラの『ロスト・イン・トランスレーション』(03)を思い出すが、あれは外国人が見た日本を描いたものであるからその違和感は違和感としてあるべきものだったが、それを前提としても些か疑問符がついたのは、劇中の日本人たちの話し言葉の不自然さにあったように思う。その点、本作に於いてはそういった類いの違和感がまるでない。それもそのはず、監督の意図を理解した上で役者自ら自然な言葉に直したり、「日本人ならばこうした行動はとらない」と監督に指摘するという能動的な関わりがあったという。彼らがいかに監督と信頼関係を結べていたかを感じさせるエピソードだ。そうしたことの積み重ねが、普遍的な物語でありながら、日本人が観ればたしかに日本人の物語であることへと結実している。
明子が到着したのは、本に囲まれた居心地のよさそうな家。テーブルセッティングが為された食卓にはシャンパンが冷えている。家の主であるタカシが、どのような人物であるかを一瞬で教えてくれる見事なセットだ。あらゆるものが長年その場に在ったことを示していて、これまでそうであったように、これからもそうであるはずだと家自体が思い込んでいるような、ある種の閉じた空気を醸している。そこに明子という異物が入り込む。何かが変わらないはずはない。映画は一日に満たない出来事を描いているのだが、翌朝、タカシが明子を大学に送り届けて以降、加速度的に展開していく。ここから先はあまり説明を加えるとヤボになりそうなので控えるが、明子という異物を迎え入れてしまった家は、もはや閉じ続けることができず、強制的に開くことを要求される。
衝撃的なラストは"今年のカンヌ、最大のサスペンス・ホラーという言われ方もあった"という。社会的地位もあるインテリのおじいさんがデートクラブを通じて女子大生を自宅に呼ぶという行為、その行為に見られる不慣れな手つき、ロマンティシズムすら湛えるその佇まい、幾つになっても変わらない男性という生き物の夢見勝ちな性(さが)を見事に描写する。そして、夢を見ることがもたらす因果応報。タカシは明子を呼ぶことを決断した時点で、それまでの生活に何らかの変化が訪れることは予測していただろうし、むしろ彼自身何らかの変化を望んでいたのかもしれない。それがまさかああいう形の変化であったことは予想だにしていなかったであろうが。キアロスタミが語る「始まりもなければ、終わりもない」という言葉に沿うならば、あのラストシーンは終わりであり、始まりでもある。
Comment(4)
Posted by 亜子 | 2016.07.09
キアロスタミ監督が亡くなられたというニュースを見て、この映画を見つけました。
台詞がごく自然で、なぜこの日本語をイランの監督が醸し出せたのか?と思うシーンがいくつもありました。
桜エビのスープ、本当なら真鯛のカルパッチョのほうが合ってたかな?
教授の部屋、みなとみらいに造られたセットだったらしいですね。
割れたガラスの修理、どうするんだろう、って心配する必要もなかったみたい。
そもそもマンションであんな大きな一枚ガラス、何か初めから不思議でした。
ああいう伏線があったとは。
おばあちゃんを探す駅のロケ地が静岡だったの、外人が見たら気づきませんね。
ローマかどこかみたい。
無国籍な21世紀の東京物語。
キアロスタミ監督の作品、辿ってもっと観てみようかとおもっています。
Posted by PineWood | 2015.06.24
髪を束ね濃いルージュを引く女生徒の姿は前作(トスカーナの贋作)でイヤリングを着けてお洒落する官能的で美しいピノシュとオーバーラップする。夫を演じる男との激しい口論に疲れ窓外の新婚さんの幸福な姿に救いを求める妻という名の女。小津安二郎監督の映画みたいに真正面で撮られた男女の会話のカット・バック。激しい口論からいつの間にか愛情へと変容させるキアロスタミ監督の魔術は(贋作)の醍醐味!愛と憎しみの虚実の中で許し合うことの寛容を描き出した前作に対して(ライク・サムワン・イン・ラブ)は優しさという名の残酷に対する抵抗なのだろうか。
Posted by PineWood | 2015.06.08
ソフィア・コッポラ監督の(ロスト・イン・トランスレーション)は東京・六本木界隈でのハリウッド映画スターの孤独感が出ていたし、天使のようにホテルの窓辺に現れたブロンドヘアーの若い女性が印象的だった。
アッパス・キアロスタミ監督の(ライク・サムワン・イン・ラブ)も孤独な大学教授の顛末を、その教え子のように若い女性とのデイス・コミュニケーションに迫った映画として印象に残った、前作(トスカーナの贋作)が偽装夫婦を演じた男と女の恋愛のデイス・コミュニケーションを執拗に辿った心の迷宮だとしたら、今回の老教授の心の闇も深い!そして、窓だけが社会と絶縁された象牙の路から脱け出す唯一の通路…。タイトルに秘められた甘いムードとはかけ離れたエンデイングの衝撃は(人生ゲーム)のラストで始めに戻るのカードを引いた衝撃と似ているかも知れない!!
Posted by ヤバシ | 2014.01.25
はじめまして。
いま録画していた本作を見ていろいろとネットで感想をたどっていたところあなたの評論にたどり着きました。
自分の感情がすべて見透かされたくらい純度の高い感度で染みる評でした。
また映画が好きになりました。