『わたしは、幸福(フェリシテ)』

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モダン・アフリカが濃厚に息づくキンシャサの夜に響き渡る、
愛と憂鬱のシティ・シンフォニー

上原輝樹

夜の帳が下りた、コンゴ民主共和国の首都キンシャサのバーは、地元客の熱気でむせ返っている。ハウスバンドの面々が、さっさと演奏をすませて家へ帰ろうぜ、と玄人ならではの軽口を叩きながら演奏を始め、バンドのシンガー、フェリシテが歌声を響かせる瞬間に途轍もないエネルギーが場を満たし始める。バーの女店主は、みんな酔っぱらうのよ!と客を煽りながら店内を練り歩き、夜には表と裏があると気の効いたアフォリズムを発する酔客がいるかと思えば、神様に必要なのは魂だ、どうせ肉体は必要ないだろうと手当たり次第に女を口説き廻り、俺の名前は"タブー"だと叫ぶ男がいる。ハウスバンドの風情でさり気なく画面に収まり、コノノ No.1と並んでキンシャサの音楽シーンを牽引するカサイ・オールスターズの演奏は、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドをも彷彿させるホワイト・ノイズをポリリズムに乗せて瞑想的に加速させていく。凶暴なサウンドに煽られたかのように、泥酔したタブーが客と揉め、殴り合いの喧嘩が始まる。

素晴らしい歌声を響かせるのは、カサイ・オールスターズで実際にボーカルを担うムアンブイ、彼女の歌声を聴いて監督のアラン・ゴミスは、この映画の着想を得たという。映画では、新進女優のヴェロ・ツァンダ・ベヤが、ムアンブイにシンガーの身のこなしの指導も受けた上で、フェリシテ役を演じている。フェリシテはバーで歌い生計を立てているシンガーだ。ティーンエイジャーの息子サモがいるが、父親の姿は見当たらない。壊れた冷蔵庫の修理が上手く行かず、結局、また新品を買う羽目になるのだが、素性が明らかではない件の男タブーが修理屋として家に出入りをしている。家に電気は通じているが、まともな家電が揃っているわけではない、厳しい生活環境の中でも、誇り高さすら感じさせるフェリシテの見事な体格からは、豊かな生命力が伝わって来る。

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しかし、そうした綱渡りの生活を営むフェリシテの身に不運が襲いかかる。一人息子のサモが交通事故に遭うのだ。知らせを受けたフェリシテは、キンシャサのだだっ広い大通りを駆け抜けて病院へと向かうが、映画はそこで謎めいたショットへとカットする。森の中で帆を張って設えられた室内でオーケストラが交響曲を奏でている。曲は、アルヴォ・ベルトの「フラトレス」、演奏をするのは、キンシャサに実在するアマチュアミュージシャンの集まり、キンバンギスト交響楽団である。"音楽で貧困を救う"ことを目的に活動をしているという、このアマチュア楽団の奏でる膨よかな調べは、これから幾度も鳴り響き、フェリシテの意識下を流れる不可視の潮流と共鳴していくことになるだろう。

フェリシテが病院に着くと、そこでは雑居部屋に血まみれのサモが寝かされている。扱いの酷さに激昂したフェリシテは、息子をまともな部屋に移して治療するよう訴えるが、医者は、手術が必要で100万コンゴフランもの大金がかかるという。フェリシテはバーで歌い続け、息子にまともな治療を施すべく日銭を稼ぐ。彼女の歌声は怒気を孕み、より一層の迫力を増しているように聴こえる。フェリシテの苦境を察したタブーは、客に寄付を募る。この地では音楽が希望と直結しているのだ。キンシャサのマジカルな夜が深まり、気づけば、フェリシテは夢の中で、漆黒の森を彷徨っていた。

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朝起きると、タブーが集めた金を持って家にきている。タブーは、美しいフェリシテ、君は野の葉のように美しい、結婚してくれ、とせがむ。フェリシテは金を受け取り満更でもないという表情を一瞬見せるが、あんたのアレは私には小さ過ぎるのよと憎まれ口を叩き、キンシャサの街に金策に出る。タブーが集めた金では全然足りないからだ。昼の陽光の下、トニー・ガトリフ組の撮影で知られるセリーヌ・ボゾンのカメラが、鮮やかで生命力に満ち、同時に、あっけらかんと荒廃したキンシャサの街を捉える。カラフルな色彩で着飾った女たちが歌い、ストリート・ミュージシャンたちが強烈なリズムを叩き出し、種々雑多な露店が、2階以上の建物は一軒たりとも見当たらない一面野原のような大通りに軒を並べている。

フェリシテは、疎遠にしていた親戚や別れた夫、金払いの悪いバーのオーナーらを訪れ、集金を迫っては疎まれる。それでも一切怯まず、手段を選ばない彼女は、確実に目的を遂げていくだろう。持たざる者が、余裕のある者に金を要求することは、決して恥ずべき行為ではなく、正当な権利であることを彼女は主張しているだけのことだ。しかし、集めた金を持って病院に走ったフェリシテを待ち受けていたのは、残酷な知らせだった。様態が悪化したサモに、片足切断の手術が施されていたのだ。全身の力が抜けた彼女は、その場で崩れ落ちる。希望を失ったフェリシテは、得意の"歌"を歌うことも出来なくなっていく。音楽は希望と直結しているが、音楽それ自体が希望であるわけではないからだ。

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サモを見舞いに大勢の者がフェリシテの家を訪れるが、フェリシテは無表情に皆を迎え入れるしかない。見かねたタブーが、皆さん、ありがとう、もう疲れているから今日は引き取ってくれ、と紳士的な態度で挨拶をして皆を送り出す。強面で呑むと大虎と化すタブーだが、ベッドに寝たきりのサモに、一人でいてはいけないと話かけ、ベッドからリビングへと移動してやる。そうして甲斐甲斐しいところを見せていたタブーだったが、心を閉ざしたままのフェリシテに痺れを切らし、フェリシテ、お前の心には刺が刺さっている、俺は傷ついた、その刺を抜いてくれと囁いた後、バーで他の女に声を掛け、一晩を共に過ごしてしまう。バーではカサイ・オールスターズが奏でる凶暴な不協和音が、夜の静寂と喧噪の間に鳴り響き、キンシャサの街には暴力が溢れている。白昼堂々、盗みを働いた女が捕まり、リンチに掛けられる。ストリートの辺り一面が暗くなり、突風が吹き、路上のゴミを舞い上げる。フェリシテは、誰にも心を開くことが出来ず、夜の夢の暗黒の時間だけが、彼女の意識を辛うじて解放しているように見える。彼女の魂はそのまま"死"に向かおうとしているのだろうか。

アラン・ゴミスは、フェリシテが体験する容易ならざる人生の物語と、彼女の意識下で夢として現れる漆黒の森の世界を淡々と対峙させて描いていく。タブーは、彼女の顔を、"装甲車"のようだと語るのだが、それもあながち誇張ではない。困難が続く人生が、フェリシテの顔を"装甲車"に変えてしまったからだ。彼女は、生まれた時、現地語の名前を与えられていたが、2歳の時に一度死んだ。棺にまで入れられたが、司祭を呼んだところで生き返ったのだという。そこで母親は、もう2度と死んでしまうことがないように、フランス語で"幸福"を意味するフェリシテという名前を授けた。フランス語で"幸福(フェリシテ)"という名を授かったアフリカの女性が、"自分自身"になれるのはいつのことだろうか?"アイデンティティの探求"と言えば、大袈裟に響きすぎる自分探しの物語に、フランス生まれでアフリカにルーツを持つ、アラン・ゴミス監督自身が、この映画を撮らなければならなかった必然性が見えてくる。

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フィリシテが、その"装甲車"の顔つきの中心にある、眼に、ほんの一粒の涙を浮かべた時、"彼女自身"の人生が始まるだろう。それはそう遠い日のことではないはずだ。彼女の横には、フェリシテに負けず劣らず"装甲車"めいた顔つきの男タブーがいる。そして、男は自らを武装解除する方法を知っている。それは、酒を飲んで酔っぱらうことである。酒を呑んで酔うことのできる者は幸いである。"金がないなら水を飲めばいい。貧しいものは苦労をして生きればいい"と昼間から酔っぱらって大声で叫ぶ者は幸いである。かつて人は、ニューヨークに行きたいと憧れ、その気になれば行けないこともなかった。しかし、今、アジアの極東の地から、アフリカの世界都市キンシャサに行きたいと憧れても、そう簡単に行くことは出来ない。貧しいが、力強くて美しい、猛烈な嫉妬に駆られる映画である。そこでは、素晴らしい音楽が鳴り響いている。


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『わたしは、幸福(フェリシテ)』
原題:Félicité

12月16日(土)より、ヒューマントラストシネマ渋谷、ヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国順次公開
 
監督・脚本:アラン・ゴミス
撮影:セリーヌ・ボゾン
編集:ファブリス・ルオー、アラン・ゴミス
音響監督:ブノワ・ド・クレルク
出演:ヴェロ・ツァンダ・ベヤ、パピ・ムパカ、ガエタン・クラウディア、カサイ・オールスターズ他

© ANDOLFI - GRANIT FILMS - CINEKAP - NEED PRODUCTIONS - KATUH STUDIO - SCHORTCUT FILMS / 2017

2017年/フランス、セネガル、ベルギー、ドイツ、レバノン/129分/DCP/1.66/5.1ch/カラー
配給:ムヴィオラ

『わたしは、幸福(フェリシテ)』
オフィシャルサイト
http://www.moviola.jp/felicite/
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