『ある過去の行方』

01.jpg

"魂の殺人"を犯したのは誰なのか?"音"が導く秀逸なサスペンス
star.gifstar.gifstar.gifstar.gif 上原輝樹

アスガー・ファルハディの新作『ある過去の行方』は、緻密な構成で見るものを魅了する、極めて現代的な意匠を纏ったサスペンス映画である。家の窓を開けた瞬間に走り抜ける列車の轟音、手紙を開き昔の写真が見えた直後に轟く電動ドリルの音、本作ではそうした"轟音"と"静寂"のコントラストが一瞬にしてサスペンスの感覚を召還する重要なファクターとして機能している。

映画冒頭、空港の到着ロビーで、離婚手続きを進めるためにパリにやって来たアーマド(アリ・モッサファ)をガラス越しに見つけた主人公のマリー=アンヌ(ベレニス・ベジョ)は、何か言葉を発しながら手を降るが、アーマドは気付かない。マリー=アンヌの声はガラスで遮られ、アーマドの耳に届いていないからだ。次のカットで、キャメラは、ガラス越しに対面するアーマドとマリー=アンヌを切り返しのショットで捉えている。そこで"音"をリアリズムで設計しようとすれば、ショット(キャメラ位置)の切り替わりと同時に"音"も切り替わることになるが、画面の連続性(コンティニュイティ)を損なってしまうので、通常、そのようなことは行われない。リアリズムの映画であれば、ヴィム・ヴェンダースの『パリ、テキサス』(84)のように、空間が隔てられていても、何らかの通話道具を使って会話することが出来ていたり、キアロスタミ作品のドライブシーンのように車の中と外、両方の音が聴こえていたりするだろう。ご都合主義的な映画の場合は、音楽やボイスオーバーを被せてしまって"音"の処理を避ける場合すら珍しくない。

02.jpg

しかし、このシーンではこうしたいかなる方法も取られていない。サウンドトラックは、ただ空港ロビーの環境音で満たされているだけで、二人の言葉は聞こえてこない。二人はガラス越しに対面しているが、相手の声は聞こえておらず、互いの表情から相手の言わんとしていることを"推測"するばかりだ。空港ロビーを出た二人は、土砂降りの雨に見舞われながら、パーキングに停めている車へ向かう。空港の室内から屋外へとカットが切り替わった瞬間に激しい雨音が耳を襲い、スクリーンを不穏な気配が支配する。巧妙な"音"の処理がサスペンスを先導し、二人の破綻したコミュニケーションを示唆する、秀逸なオープニング・シークエンスである。

(『別離』(12)については見逃しているのでわからないが)『彼女が消えた浜辺』(09)同様、本作は、A地点から車でB地点へ移動して、B地点にある"家"を舞台に主な物語が展開する。家にはマリー=アンヌと3人の子どもたち、ブリュッセルに住む一人目の夫との娘リュシー(ポリーヌ・ビュルレ)、アーマドとの娘レア(エリエス・アギス)、新しい夫になろうとしている男サミール(タハール・ラヒム)の連れ子フアッド(ジャンヌ・ジュスタン)が住んでいる。そこに、マリー=アンヌから呼び寄せられたアーマドが訪れてくるわけだが、どうやら、仕事と家事の両立に忙しいマリー=アンヌは、新しい夫になろうとしているサミールもこの家で同居を始めようとしていることをアーマドに告げていなかったようだ。マリー=アンヌの、隠匿しておくことで自己の優位を保つ、ほとんど本能的と言うべきかもしれない保身術は、『彼女が消えた浜辺』において、その場を上手くやり過ごす方便として"小さな嘘"を積み重ね、やがて重大な事件を引き起こす、美しきゴルシフテェ・ファラハニー演じる"世話好きな女"セピデーの人物造形をすぐさま想起させる。

03.jpg

妻と分かれて家を出たが、流暢なフランス語を話し、母国イランの料理も嗜むアーマドは、子どもたちとやがて打ち解け、長女リュシーが母親の再々婚について快く思っていないことを知ることになる。マリー=アンヌの新しい夫になりつつあるサミールは、クリーニング店を営んでおり、妻との間に一人息子のフアッドがいる。父子はともにマリー=アンヌの家に住み始めているが、リュシーに反対されて、彼らの新しい船出は早くも綻びを見せ始めている。鬱病を煩っていた、サミールの妻が自殺を試みて、リュシーは、彼女の母親とサミールの関係が原因だったのではないかと疑っているのだ。

アーマドは、リュシーと相対するうちに、別れた家族の知られざる時間の重みに絡めとられて行く。"サスペンス"には、"真犯人"がいて、その犯罪を追求する"探偵"の存在がつきものだが、サスペンスの名手ファルハディ監督は、"探偵"アーマドを「藪の中」に放り込んで、幾人もの視点が複雑に交錯する不可視の"過去(=原題:Le passé)"を、サスペンスにおいてクリシェであるフラッシュバックを一切使わずに、見事な手捌きでスクリーンのリニアな時間の上に相互補完的に露にしていく。深く沈殿しようとしていた登場人物たちの"過去"が、徐々に白日のもとに晒されてゆく。

04.jpg

冒頭で触れた"音"の処理同様、本作における"音"はしばしば反自然主義的に演出されている。本作において、透明の"窓"が視界を遮ることはないが、その外で交わされている会話の音声は意図的に完全に遮断されており、遮られた側に置かれた者は、その身振りを見て話の内容を"推測"するしかなく、正確に話された内容=事実を直接的に知ることはない。ファルハディ監督は、人が"推測"することで物事を決めつけたり、勝手に思い込んでしまうことの危うさを、サスペンスの原動力として物語を駆動していく。そこでは、前提条件であると思われた、親と子の"愛"や、恋人同士の"愛"すら例外ではなく、すべてが問いに付されていくだろう。"離婚手続き"という、ほんの"プロセス"に過ぎないと思われた移行期間の微睡みの中で、人生における全ての難題が記憶の遥か彼方から降り注いで来て、人を呆然とさせる。人は"過去"と別れようとするが、そう簡単にはいかないものだ。本作は、"犯人探し"のサスペンスであると同時に、『ある女の存在証明』ならぬ、ある女の"愛"の存在証明というべき、"愛"の在処を弁証法的に証明することを試みた秀作である。


『ある過去の行方』について、皆様のご意見・ご感想をお待ちしております。
なお、ご投稿頂いたものを掲載するか否かの判断については、
OUTSIDE IN TOKYO 編集部の判断に一任頂きますので、ご了承ください。





Comment(1)

Posted by PineWood | 2015.06.02

音に着目したレヴュー、興味深いです。そんな観点、いや聴覚でもって見直したい映画の一つとなりました。聴覚や音という要素では最近見たポルトガルの映画(イマジン)も視覚障害をおった男女の恋愛劇ですが、音に鋭敏でイマジネーションの膨らみそのものが主題で、見終えた時小栗監督作品(泥の川)を思い浮かべていました。船の汽笛、波の音がそういう連想を呼んだのかも知れませんがー。
他方、ファルハデイ監督の今回の作品では髯のはえた男たちが登場し小津安二郎監督の(髯と淑女)ではないけれど、似た風貌という要素も映画のストーリーを興味深いものにしたようにも想える…

『ある過去の行方』
原題:Le Passé

4月19日(土)よりBunkamuraル・シネマ、新宿シネマカリテほかにて全国順次公開
 
監督・脚本:アスガー・ファルハディ
製作:アレクサンドル・マレ=ギィ
脚色:マスメ・ラヒジ
撮影:マームード・カラリ
編集:ジュリエット・ウェルフラン
音楽:エフゲニー・ガルペリン、ユーリ・ガルペリン
出演:ベレニス・ベジョ、タハール・ラヒム、アリ・モッサファ、ポリーヌ・ビュルレ

© Memento Films Production - France 3 Cinema - Bim Distribuzione - Alvy Distribution - CN3 Productions 2013

2013年/フランス、イタリア/130分/カラー/ビスタサイズ
配給:ドマ、スターサンズ

『ある過去の行方』
オフィシャルサイト
http://www.thepast-movie.jp
印刷