アパートメントのカビ臭い地下室に引き蘢った14歳の少年の物語が、巨匠ベルトルッチの手に掛かると、これほどまでに品格のある青春映画になってしまうのか。映画は、現在のベルトルッチ監督の状態を偲ばせる、車椅子に座った精神科医が、主人公の少年ロレンツォ(ヤコポ・オルモ・アンティノーリ)と対話をするシーンから始まる。キャメラは、部屋を出て螺旋階段を駆け下り、ローマの高級住宅街にある自宅アパートメントへの道をヘッドフォンで音楽を聴きながら歩いくロレンツォを追ってゆく。ヘッドフォンからは、ヤコポ・オルモの顔はザ・キュアのローバト・スミスを彷彿させると語ったベルトルッチ監督の連想に呼応して、「The Boys Don't Cry」が流れている。物語はまだ何も始まっていないのに、ベルトルッチ監督10年振りの新作の冒頭からこの曲が流れているというだけで胸が熱くなる。
ロレンツォは、母親のアリアンナ(ソニア・ベルガマスコ)とほぼふたりで暮らしており、父親はほとんど家へ帰ってこない。入院している祖母(ヴェロニカ・ラザール)の見舞いには足繁く通っており、見舞いの度に祖母は、ロレンツォとの別れをこの世の別れのような表情で惜しんでいる。ロレンツォは、そんな祖母には優しいが、思春期特有の鬱陶しさで母親のアリアンナを常に困らせている。しかしある日、学校で行なわれるスキー旅行に参加することにしたと言って、母親を喜ばせる。ロレンツォは、それを伝え聞いた父親が何と言ったか、父親が言ったその通りの言葉を聞きたかったのだが、母親は正確な言葉を思い出せないのか、何度聞かれても、喜んでたわよ、と素っ気なく答えるばかりでロレンツォを落胆させる。
精神科医曰く"異様に自我が肥大している"ロレンツォが家族のすれ違いに感じている違和感を、繊細に描き出す巨匠の演出に唸っていると、そんなロレンツォの妄想的想像力を伴った不安感を、『アッシャー家の崩壊』(28/J.S.ワトソンJr. & メルヴィル・ウェバー)やヴェンダースの『ハメット』(82)を想起させる、シュルレアリスム的手法で表現する"透明な天井"のシーンに出喰わし呆気にとられてしまう。
スキー旅行の用意を準備万端整えたように見せかけて母親の車で送られるロレンツォは、こんなことをしてもらっている子はいない、とヒステリックに言って、途中で車を降り、ひとりで集合場所へ向かう。ベルトルッチの視線は完全に思春期の少年に注がれており、母親にはどうも分が悪いが、このニキビ面の少年に人はどこまで感情移入できるだろうか、という疑念がこの時点で払拭されているわけではない。ロレンツォは、次々に集まってくるクラスメート達と目を合わせないように、道の端っこを人目を避けて歩き逆方向のバスに乗り込むと、そのまま自宅のアパートメントに戻り、守衛を電話で呼び出した隙を見計らって、カビの匂いがしそうな地下の物置部屋へ入っていく。
ベルトルッチは、悠々自適の7日間をひとりで過ごそうとする少年の計画的行動を的確に描いているが、何一つ説明的な描写はなく、劇中の事実は、ロレンツォの孤独な日常や家族と過ごす時間の自然な流れの中で、時には電話の話し声から(ロレンツォがスキー旅行へ行くという話)、見過ごしそうなちょっとした動作から(旅行代金をポケットしまうロレンツォ)、店員との会話から(7日間分の食料)、さり気なく簡潔に示されていく。登場人物の捩じれた感情や複雑な家族関係まで、情報量の多い物語だが、あまりに自然な映画的時間の流れの中に、全ての事象がさり気なく示されているので、観客は物語の背景に広がる複雑さに心を煩わせる必要がない。
まんまと母親を騙して、地下の物置部屋での1週間引き蘢り生活を決め込んだロレンツォは、汚れ切った部屋を掃除し、部屋のレイアウトを整えて行く。くすねた旅行代金で買った蟻の巣を観察するのもロレンツォにとっては楽しい時間だ。そうして誰にも邪魔をされない一人きりの逃避生活も2日目を迎えたが、レイヴンのようなコートを纏った闖入者がやって来て、ロレンツォの密やかで快適な世界を掻き乱し始める。携帯電話で大声で話しながら部屋に入って来た黒尽くめの女は、ロレンツォの異母姉オリヴィア(テア・ファルコ)だった。
このオリヴィアの登場シーンが素晴らしい。ファビオ・チャンケッティのキャメラは、まず、オリヴィアの足許を捉え、徐々に体を覆う光沢のある黒のコート、黒のニット帽を被ったオリヴィアの全体像を捉えていく。そして、闖入者の乱入に苛つくロレンツォと激しく言い合う中、サッと帽子を取った時に溢れ出るブロンドヘアが露わになった時のオリヴィアの、凛とした獣のような美しさ!媚びることを知らないロック・ミュージシャンのような声質!そこにいるだけで、スクリーンを占領してしまう、"黒い天使"のように圧倒的な存在感が、観るものを惹き付ける。
ひとりの時間を満喫していたロレンツォは、カターニアからやってきた身寄りのない異母姉オリヴィアに自分の空間と時間に侵入されることを頑なに拒否するが、スキー旅行が順調にいっているかどうかを案じる母親からの電話に、先生のフリをして見事に難を切り抜けてくれた彼女に対して、自分よりも世間慣れした頼り甲斐を感じたに違いない。しかし、次の瞬間には、一転してジャンキーであることが露呈し、ロレンツォは困惑するしかない。父親の"正妻"であるロレンツォの母親と、カターニアで捨てられたオリヴィアの母親、このふたりの母親の境遇の違いが、ふたりの子供の生活水準の違いを生んでいたことを、ロレンツォは知ることになる。オリヴィアが禁断症状でここを出るに出れないこともあって、孤独なふたりの奇妙な共同生活がなし崩し的に始まってゆく。
オリヴィアが「この死んだシマウマ、嫌い」と言いながらシマウマの皮の敷物を素足で指し、「僕もだ」とロレンツォが応える、初めてこの異母姉弟が心を通わせるシーンが愛らしい。世界の辺境を生きるふたりの奇妙な共同生活は徐々に形を成してゆく。もちろん、この閉ざされた空間に囚われた男女のモチーフは、『ラスト・タンゴ・イン・パリ』(72)や『ドリーマーズ』(2003)でも中心的なテーマであったし、"囚われの人"というモチーフは、紫禁城に囚われた溥儀の物語である『ラストエンペラー』(1987)にも内包されていた極めてベルトルッチ的主題のひとつであることは言うまでもない。
そうしたベルトッルッチ的な閉ざされた空間の中で起きる、本作の白眉と言うべきシーンにおいて、ベルトルッチが見せてくれる演出は、デヴィッド・ボウイの「スペース・オディティ」という楽曲が元来携えているメランコリックな美しい感情と、吐き出す契機を奪われ続けていた友愛の情をオリヴィアが一気に迸らせロレンツォに手を差し伸べる、"静"から"動"への俊敏な動き、昂る感情と映画的身体表現が完璧に連動する瞬間を、オペラ的に高揚していく時間の流れのなかに描いている。"映画の神"が一瞬にしてスクリーンに舞い降りてくる、その瞬間があまりにも愛おしい。
イタリア語で歌われる「スペース・オディティ」は、イタリアの作詞家モゴールが「ロンリー・ボーイ、ロンリー・ガール」というタイトルでリメイクしボウイ自身によって1969年に吹き込まれた。宇宙へ飛び立ったメイジャー・トム(トム少佐)が、地球から遥か彼方、10万マイル離れた宇宙空間で通信が途絶えてしまう、圧倒的な孤独をSF的世界観の中で表現したボウイの歌は、夜の街を彷徨う孤独な少年と少女のメランコリックな死への憧憬へとメタモルフォーゼを遂げている。そして、デヴィッド・ボウイの宇宙空間に置き去りにされるメイジャー・トムの物語を、21世紀の今、ベルトルッチの『孤独な天使たち』を観ることでイメージし直してみると、またひとつスケールの異なる"孤独"が想起される。それは、テレンス・マリックの『ツリー・オブ・ライフ』(11)において一連のナショナル・ジオグラフィック的映像の中で示された、宇宙誌における人間存在の圧倒的な孤独感だ。
人は、日常のスケールを離れて、何かに触れた時、自らが囚われている見えない牢獄の存在に気付かされる。『孤独な天使たち』のロレンツォとオリヴィアが触れたのも、そのように自分のスケールとはそれぞれ異なる"孤独"ではなかったか。この世界に"孤独"な存在として生まれついた者同士だからこそ、訪れる奇跡のような瞬間。この白眉のシーンの直後に交わされるふたりの約束が守られることになるかどうかは、観客の想像力に委ねられている、というよりは、ふたりの素晴らしい俳優の表情に委ねられているというべきかもしれない。ニッコロ・アンマニーティの原作とは、エンディングを変えているとベルトルッチ自身が語っているが、テア・ファルコが演じるオリヴィアには、これ以外には考えられないというエンディングが用意されている。
それにしても、ロレンツォとオリヴィアを演じるヤコポ・オルモ・アンティノーリとテア・ファルコという新しい才能を発掘し、自らの映画に起用するベルトルッチの何と若々しいことか!しかも、見事にマリア・シュナイダーやリヴ・タイラー、エヴァ・グリーンといったベルトルッチ女優の系譜に属する容貌を備えたテア・ファルコという女性は、女優ではなく、役柄を地でいく写真家/アーティストであるという驚き。幾つもの驚きに満ちた尽きせぬ泉のように若々しい巨匠50年目の傑作は、トリュフォーへの挨拶としか言いようのないショットで終わり、ヌーヴェルヴァーグへの溢れ出る愛を隠そうとしない。自らの映画の起源を隠蔽することなく、「あられもない愛情を撒き散らす」イタリア人、ベルナルド・ベルトルッチの本国への帰還、「映画という島」への帰還を心から祝福したい。
Comment(2)
Posted by PineWood | 2015.07.18
禁じられた愛という点ではベルトルッチ監督の(革命前夜)の主題とも通じ合う。そのモノクローム映画ではカラー映像を見るワンシーンが映画へのオマージュとして鮮烈な印象を残す。(孤独の天使たち)もラストシーンが(大人は判ってくれない)へのオマージュなのだが、ヌーベルバーグ或いは映画史へのオマージュなのだろう!(殺し)での街そのものの見事な時空間での語り口は黒澤明や溝口・小津映画をも凌駕しているとも思えた…。
Posted by サガン | 2014.12.03
長い間待った甲斐のあった。期待を裏切らない、ベルトルッチの、今の時代の青春期の彼らを、完ぺきに描き尽くしていて、大満足でした。ニキビ顔も汚れたバスルームも、なんと美しく描く監督に、脱帽です。今を描く希少な監督。次回を待ってます。 85歳