『甘い罠』

上原輝樹
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イザベル・ユペール(ミカ)とジャック・デュトロン(アンドレ)が演じる元夫婦の再婚式に集った親族や会社の関係者が、密やかに語るゴシップの中に、今回はミカは上手くやるだろう、もう18歳の女の子ではないのだから、という会話が漏れ伝わってくるだけで、何やら極上のサスペンスの予感が開巻早々漂う、シャブロル監督2000年の作品『甘い罠』は、一瞬水彩画かと見間違えそうになる淡い色彩の水面と一隻の船をパンで捉えたキャメラが名匠レナート・ベルタの手によるものであることクレジット表記で伝えつつ、不穏さを湛えながらも何とも精神を落ち着かせるピアノ曲(リストの「葬送」)を背景に、スイス国籍の旅客船が入港したことを告げる、完璧なオープニング・シークエンスが見る者の心を奪う。ここが、どうやらスイスのレマン湖畔であることがわかるのは、すぐ後の話なのだが、いずれ、"ローザンヌ"という固有名が登場人物の会話から聞こえてくる頃には、"(複数の)映画史"を塗り替えたあの男の顔が思い浮かび、厭でも胸騒ぎの度合いが高まっていく。

本作『甘い罠』は、アメリカの作家シャーロット・アームストロングの「見えない蜘蛛の巣」という小説を基に作られた、二つの家族の出生の秘密を巡るサスペンス映画である。前述の家族、ミカとアンドレは、それぞれチョコレート会社の社長と高名なピアニストという、セレブな家庭、もう一つの家族は、父親を事故で失った母子家族だが、こちらの母親も、研究所の所長を務める才女である。娘のジャンヌ(アナ・ムグラリス)は才気活発な女性で、将来はピアニストになりたいと思っている。このジャンヌを、カール・ラガーフェルドのもっともお気に入りだったという事実からも実生活での抜け目のなさすら想像させるモデル、アナ・ムグラリスに演じさせ、瑞々しくも、爬虫類的な狡猾さを持ち合わせる野生的な特性がジャンヌ役には必要不可欠であったことを見抜いた、老獪なシャブロル監督のキャスティングが功を奏している。

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両親が何れも同じ血液型であることによって、どちらとも決定打に欠ける出生の一騒動を発端に、セレブ家庭に出入りするようになったジャンヌは、初めは、優れたピアニストであるアンドレからピアノのレッスンを受けることができるのが嬉しいだけだったものの、たまたまココアの入ったボトルを故意に床にぶちまけるというミカの不可解な行動を目撃してしまったことから、この家の隠された秘密を探っていくことになる。アンドレの前妻リズベットは謎の自動車事故でなくなっているのだが、どうやら、ジャンヌが疑い出すまで、アンドレにしろ、前妻との間に出来た息子ギヨームにしろ彼女の怪しさに気付くものはいない。シャブロル作品でユペールが一見完璧な主婦であり母親を演じているというだけで、観るものにサスペンスを感じさせてしまうところは、もはや、この監督と女優の紡ぎ上げて来た歴史の成せる技か。ユペールの見せる笑顔には、どこかしら薄氷を踏むフラジャリティが纏っている。

ピアニストを目指しているジャンヌの当面の課題曲がリストの「葬送」であることから、アンドレはこの曲ばかりを演奏している。映画は一体誰を「葬送」しようとしているのか?不可解な自動車事故で亡くなった前妻リズベットの亡霊が、この家を陰で支配するかのような暗然たる存在感をうっすらと醸し出してはいるようにも見えるのだが、、、。素人探偵の才能を発揮し始めたムグラリスは、こぼされたココアに、レイプ・ドラッグとも言われる睡眠薬が入っていたことを突き止める。一体、なぜ、ミカはそんなものをココアに入れて、その上、故意にこぼすようなことをしたのか?疑いを募らせるジャンヌは、息子のギヨームに、すてきな家族で良かったわね!注意しなさいよ。と警告を与える。

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ミカが、一計を案じて、ギヨームを部屋に閉じ込めておく為に渡したビデオが、フリッツ・ラングの『扉の影の秘密』(48)とジャン・ルノワールの『十字路の夜』(32)なのだが、私自身いずれも未見ながら、少し調べたところによると、『扉の影の秘密』は"愛されない子ども時代"のトラウマを持つ登場人物を扱い、いずれの作品も"グラスのシーン"が重要な役割を果たす娯楽性の高いフィルム・ノワールであるということだから、そうだとすると、この2本のビデオを"愛されない子ども"ギヨームに、ミカが手渡すというところに"映画"への愛と、愛されない者の不幸への慈しみが、満ち溢れているようで大変興味深い。

退屈という言葉から最も遠い所にあって、見事なリズムの会話劇を軽々と展開してゆくに従って、次第に露わになってゆくミカのミステリーとジャンヌの出生の秘密。ここでも世界を陰日向で動かしているのは、野心的に見える2人の女性、ミカとジャンヌであることは、シャブロル作品である以上、当然の事のようにも思えるが、官能的なものであるに違いない"見えない蜘蛛の巣"を何とも楽しげに可視化しようとするかと思えば、また見えなくしてゆく、シャブロル監督の演出手腕が冴え渡っている。ローザンヌの緑豊かな湖畔沿いの見事な石垣が連なる緩やかな坂道と、IMDBトリヴィアによると当時デヴィッド・ボウイが所有していたという、坂の上の瀟洒な邸宅を捉える名匠レナート・ベルタの仕事も大いに満喫できる極上のエンターテイメントだ、などと優雅な気分に浸って観ていると、最後にとんでもない目に逢う!油断も隙もない怖るべき傑作である。


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『甘い罠』
原題:MERCI POUR LE CHOCOLAT

5月21日(土)より、渋谷シアター・イメージフォーラムにて3週間限定ロードショー
 
監督:クロード・シャブロル
出演:イザベル・ユペール、ジャック・デュトロン、アナ・ムグラリス

2000年/フランス/100分/カラー
配給:紀伊國屋書店、マ−メイドフィルム

『甘い罠』
オフィシャルサイト
http://www.eiganokuni.com/
meisaku2-chabrol/



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