『チェンジリング』

上原輝樹
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黒いスクリーンに小さく浮かび上がる a true story という文字が映画の始まりを告げると、次の瞬間には世界恐慌を間近に控えた1928年のロサンジェルスの街並みが、メタリックグレーに色落ちした硬質な色彩で再現される。たったそれだけの言葉と映像だけで、これから語られる物語が、現代に生きる我々にとってアクチュアルな問題を孕んだものであることを端的に示しながら、映画は幕を開ける。

アンジェリーナ・ジョリー演じるシングル・マザーのクリスティンとその一人息子ウォルターの日常を描いた冒頭数十分の何気ないシーンだけが、映画の中で、唯一、幸福な時間を体現している。それは、世間一般の幸せ感から見れば、シングル・ペアレントという時点で、すでに十分に満たされるものではないのかもしれない。それゆえに、この親子が互いに感じる"かけがえのなさ"が画面を通して見る者に伝わってくる。だがそんな短い"幸福な時間"は"事件"と共に、やがて終わりを告げる。息子と遠出をすると約束しながら仕事に出かけたある日、クリスティンが仕事から帰ると、ウォルターの姿が見えない。その朝まで"幸福な時間"が支配していた我が家が、一夜にして豹変するのだ。

失踪した息子を探すクリスティンの行く手を阻んだのは、なんと、1920年代当時、権力の濫用と暴力がはびこっていたロサンジェルス市警だった。ロス市警は、その功績を焦るあまり、間違った子供をウォルターだとして、クリスティンに押し付ける。クリスティンだけでなく、学校の先生もクラスメートも、かかりつけの歯医者も、ウォルターを知るものは誰もが、その"間違い"を見抜くのだが、ロス市警は狡猾にも、新聞などのメディアを利用して、母親は一時的に息子を失ったショックから精神を病み、自分の子供すら判らなくなってしまったという風評を流すことで、彼女を精神病院に閉じ込めてしまう。いくら"実話"だとは言え、もう80年も前の話なのだから、と簡単に聞き流すことができないのは、こうした官僚機構による組織ぐるみの"犯罪的行為"が今でも世界中のあらゆる国々で行なわれている事を、私たち自身が知っているからだ。

そんな精神病院に閉じ込められたクリスティンに手を差し伸べたのは、意外にも、長老教会(米国プロテスタント系)の牧師だった。実話に基づいた映画で"牧師"がこれほどまでに正義の味方として活躍する姿を見るのは随分と久しぶりのことだが、"信仰"というテーマはアメリカ人の日常生活に欠かせない重要なエッセンスのひとつであるということを改めて気付かせてくれる。23年前の傑作西部劇『ペイル・ライダー』では、Preacher(牧師)という役名で、牧師の格好でどこからともなくやって来て人々を救ってはまた去って行くという救世主を自ら演じたイーストウッドだが、本作では、ジョン・マルコヴィッチが腐敗した官僚機構の悪を糾弾する牧師を演じている。

しかし、この映画には『ペイル・ライダー』のような救いは訪れない。イーストウッド監督は、『硫黄島の手紙』と『父親たちの星条旗』でやってみせたように、全体主義的な集団や組織がいかにして一人の人間を追い込んでいくか、そして、普通の人々が如何に容易に追い込む側に加担し得ることか、そうしたプロセスを丁寧に積み上げて描くことで、その醜悪さを炙り出すことに成功しているものの、ハリウッド的なハッピーエンドを提供してくれるわけではない。なぜなら、失われた"かけがえのない日常"を修復することができるほどの奇跡は、現実に起きなかったのだから。

clint_s01.jpg実生活で6児の母であるアンジェリーナ・ジョリーは、「子供が誘拐されるような不吉な映画には出演したくない」と戸惑いながらも、実話に基づいた脚本を読み、官僚機構に一人で立ち向かった母親クリスティーナを演じる決意を固めたと言う。イーストウッド監督への全幅の信頼があったのだろう、ロバート・デ・ニーロが監督した佳作『グッド・シェパード』では、どう見ても"アンジェリーナ・ジョリー"にしか見えなかった彼女だが、本作では、スターのエゴを封印して、失踪した息子の母親の役を見事に演じきっている。『チェンジリング』は、現代アメリカ最大の映画作家クリント・イーストウッドとハリウッド女優アンジェリーナ・ジョリーがタッグを組んで取り組んだ、実在したひとりの母親に捧げられた弔い合戦のようだ。イーストウッド自らが作曲した美しいテーマ曲には、その闘いに込められた"祈り"にも似た深い感情がはっきりと刻印されている。



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『チェンジリング』
Changeling

2009年2月20日(金)より、日劇3ほか全国ロードショー

監督・製作・音楽:クリント・イーストウッド
脚本:J・マイケル・ストラジンスキー
製作総指揮:ティム・ムーア、ジム・ウィテカー
製作:ブライアン・グレイザー、ロン・ハワード、ロバート・ローレンツ
撮影:トム・スターン
衣装:デボラ・ホッパー
美術:ジェームズ・J・ムラカミード
編集:ジョエル・コックス、ゲイリー・D・ローチ
出演:アンジェリーナ・ジョリー、ガトリン・グリフィス、ジョン・マルコビッチ、マイケル・ケリー、ジェフリー・ドノバン、コルム・フィオール、デボン・コンティ、ジェイソン・バトラー・ハーナー、エイミー・ライアン、エディ・オルダーソン他

2008年/アメリカ/142分/DTS/DOLBY DIGITAL/SDDS/1:2.35/カラー
製作:イマジン・エンタテイメント、マルパソ・プロダクション、リラティビティ・メディア
© 2008 Universal Studios. ALL RIGHTS RESERVED.
配給:東宝東和

『チェンジリング』
オフィシャルサイト
http://www.changeling.jp/




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ヘビーな内容のわりに、オシャレ〜なUS版サントラ・ジャケット

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