ダニー・ボイル監督の新作『トランス』(13)は、『シャロウ・グレイブ』(94)と『トレインスポッティング』(96)でダニー・ボイルの名前を覚えたものの、『普通じゃない』(97)や『ザ・ビーチ』(00)で関心を失いかけ、『28日後... 』(02)は見る機会すら逸し、世界を席巻した『スラムドッグ$ミリオネア』(08)に関しては、その狂騒を遠い目で眺めるに留まり、『127時間』(10)の能天気さには辟易とする他なかった、私のような変わり者にとっても、何とも胸のすく思いがする快心の一作である。
白昼堂々、ロンドンのオークション会場で、40億円の売値がついたゴヤの名画「魔女たちの飛翔」が盗まれる、オークション運営側と窃盗団の攻防を描く、映画冒頭の活劇的緊張感が見事だ。オークション会場で厳重な警備の一翼を担う主人公サイモン(ジェームズ・マカヴォイ)と、窃盗団のボス、フランク(ヴァンサン・カッセル)はいずれも抜群の登場感で画面に踊り出で、本作における決定的な対立軸を形成する。とりわけ、撮影監督アンソニー・ドッド・マントルが仰角から捉えたヴァンサン・カッセルの登場シーンは、よく知られ過ぎた感すらある、馴染みの俳優の、予想を遥かに上回る悲壮感に満ちた表情を数秒の間に捉えており、犯罪活劇におけるこの俳優ならではの魅力を再認識させてくれる。
名画盗難の現場で、フランクにしたたかに殴られたサイモンは、記憶の一部を失い、肝心の「魔女たちの飛翔」の在処を誰も掴むことができない。そこへ、サイモンの記憶喪失を睡眠術療法を使って治すという、療法士エリザベス(ロザリオ・ドーソン)が現れる。ここでも、ダニー・ボイルは、全てがテンポ良く流れ去って行く時間の流れの中で、余裕を持った登場シーンをロザリオ・ドーソンに用意している。エリザベスのドクター然とした落ち着いた佇まいと、耳に心地よく響く彼女の声が、サイモンを、そして、観客を魅了し、催眠術療法の忘我の領域(トランス)へと導いてくれる。
記憶喪失のサイモンと、名画の在処を突き止めるためには手段を選ばないフランク、対立するふたりの間に舞い降りたエリザベス、この三人の関係がストーリーの進展とともに、様相を変えてゆくさまがスリリングだが、『トレインスポッティング』で一躍脚光を浴びたジョン・ホッジが手掛けた脚本は、「人間は記憶の連続体だ」といった、人間の実存に関する哲学的省察を織り込んだハイブロウな台詞を繰り出し、ジャンル映画的快感に留まらない、知的かつ感覚的なトランス状態に観客を誘う。
もちろん、そのトランス状態を形成する上で欠かせなかったのが、アンダーワールドのメンバー、リック・スミスの音楽であることは言うまでもない。『トレインスポッティング』の成功を決定づけた、その年のブリティッシュ・アンセムとも呼ばれたアンダーワールドの「ボーン・スリッピー」が生んだ圧倒的な高揚感、その瞬間を忘れられないものにとって、良きダニー・ボイルの映画の条件とは良き"音楽映画"であることに他ならない。2012年、21世紀のイギリスをまさにブリティッシュ・ロック~パンク~ブリット・ロックの国として改めて印象づけた、演出ダニー・ボイル、音楽監督リック・スミスによるロンドンオリンピック開会式の高揚感は未だ記憶に新しい。
しかし、"音楽映画"の高揚感だけで終わらないところが、本作『トランス』の素晴らしいところだ。それは、睡眠術療法士エリザベスを演じるロザリオ・ドーソンの、ある瞬間の表情を捉えた数秒のショットの成否に賭けられている。なぜ、エリザベスは、あのような表情をしなければならなかったのか、その謎を巡って、映画の物語は、思いもよらない豊かな感情の横溢を観客に体験させてくれる。このショットが機能するかしないかに、観客がトランス状態のままスクリーンの外へ"飛翔"できるかできないか、その成否が賭かかっている。
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