『ブラック・スワン』

上原輝樹
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悪魔の呪いによって白鳥に姿を変えられたお姫様は、王子の真実の愛によってのみ救われるという「白鳥の湖」のストーリーとドストエフスキーの「分身」で描かれたドッペルペンガーをベースにし、芸術上の達成と欲望、そのために支払う代償を描いた『赤い靴』(48)の禍々しさを出発点に、バレエ・ダンサーの超人的変身願望へのオブセッションを黒という唯一無比の色に集約してみせた『ブラック・スワン』は、名作イギリス映画では"ロンドンの胃袋"コヴェント・ガーデンに息づいていた猥雑さを、やさぐれた21世紀の魔都ニューヨークへと舞台を移し、バレエ・カンパニーに君臨する芸術監督ルロイ(ヴァンサン・カッセル)が、優等生バレエ・ダンサー、ニナ(ナタリー・ポートマン)を性的放埒と退廃的誘惑の道へと心身ともに追い込んでいく、デモリッシュな刺激に満ちたサイコ・スリラーである。

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ダーレン・アロノフスキー監督にしてみれば、主人公を精神錯乱に追い詰めた『レクイエム・フォー・ドリーム』(00)のドラッグ体験のパラノイア描写を、精神と共に肉体的にも役者を追い込むということで言えば、ミッキー・ロークが演じた『レスラー』(08)の過酷な人生描写を、とりわけ後者ではご本人曰くシネマ・ヴェリテ的手法でものにしている強者であるから、公私ともども優等生イメージの強いナタリー・ポートマンが本作の主演を演じ切るには相当の苦労があっだろうことは想像に難くない。実際に、撮影前の10ヶ月毎日5時間のレッスンを受けたという彼女は、靭帯を切ったり、肩を脱臼したり、肋骨にひびが入ったりと、満身創痍であったことが伝えられている。

『レスラー』における、レスリング・シーンの重量感、観る者に痛さが伝わってくる肉弾戦描写は、『レスラー』という映画自体の浪速節的分かり易さを超えて、ある種異様な苛酷さの領域に達していたが、その残酷は『レクイエム・フォー・ドリーム』のドラッグ・パラノイアと通底しつつ、同じ原作者(ヒューバート・セルビーJr. )による『ブルックリン最終出口』(ウリ・エデル監督/89)における暴力中毒者の悪夢すら、微かに想起させる。プロレスラーやダンサーといったアスリートの世界を描きながらも、セルビーJr.やルー・リードといったニューヨーク詩人のユダヤ的デーモンを背後に抱えているのが、ブルックリン生まれの映画作家アレノフスキー監督だからこそ持ちうるタフネスだと言ったら良いだろうか。

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そんな監督のアスリートへの複雑でタフな愛情が、『レスラー』の2倍程濃縮した形で『ブラック・スワン』に注がれている。本作では、肉体に対する加虐性は、"バレエ"という芸術表現の洗練を通して、ポートマンの肉体に対してのみ加えられる。"のみ"というのは、一代前のプリマ、ベス(ウィノナ・ライダー)は既に廃人同様になっており、ニナのライバル心を掻き立てる新人リリー(ミラ・クニス)は天性のしなやかさと野性的な官能性を備えているから、そんな責苦からは解放されている。キャメラは、酷使して潰れかけるニナの足先をクローズ・アップで捉え、精神的に追い詰められた彼女の肌の異常を悪寒を感じさせる鮮明さで描き出す。恐らく、映画を観る前に想像した以上のことにナタリー・ポートマンは挑戦している、と観客の誰もが思うに違いない。

darren_05.jpgそもそも、ニナに"バレエ"を与えたのは、彼女の母親エリカ(バーバラ・ハーシー)である。若い頃、バレエのプリマを目指した彼女だったが、ニナを産むために、自分のキャリアを諦めたのだということを今でも胸に抱えている。『センターステージ』(00)などの青春映画を思い起こすまでもなく、バレリーナの母親が娘に自分の夢を託して、がんじがらめにして苦しめるという物語はひとつのクリシェであって、ジャンルを音楽に転じれば、同じような病的な関係がハネケの『ピアニスト』(01)におけるアニー・ジラルドとイザベル・ユペールとの関係で描かれている。本作は、この母親のデモリッシュな愛憎を起点にして、不条理めいたホラー映画的様相を加速度的に露にしていく。

ニューヨークを舞台にしたスリラーと言えば、ブライアン・デ・パルマの『ファントム・オブ・パラダイス』(74)における哀しい怪人の跳躍や『殺しのドレス』(80)の暗く濡れた石の舗道に支配されたニューヨークの暗闇を強烈に連想しつつも、バレエ映画とは言いかねる、スコセッシが絶賛したルシール・アザリロヴィックの『エコール』(04)の下品一歩手前で寸止めしたエロティシズムすら、本来の"バレエ"の興行には存在していたのだからということを、中野京子の「怖い絵」に収録されたドガの「エトワール、または舞台の踊り子」に纏わる考察で確認したことを想起すれば、アレノフスキー監督のデモリッシュな感性が、現代版「白鳥の湖」の映像化を夢見たのは当然の成り行きだった言うべきかもしれない。

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数多く登場するニナの主観ショットの撮影には、ナタリー・ポートマンと同じくらいの身長のキャメラマンが採用され、"鏡"を覗き込むことが常となっている彼女の日常において、現実と幻想の境目を徐々に失っていく表現者の心象表現に大いに効果を発揮している。ニナの追い詰められた精神状態の息苦しさを体験することになる観客もまた、ほとんど息をつく暇もないまま、宙吊りにされた物語のテンションは持続していく。ダンスシーンの撮影では、ナタリー本人が踊るシーンと彼女のダブルであるプロのバレー・ダンサーが踊るシーンの両方があるが、この入れ替えの場面を、ジョン・ウエインとスタントマンが入れ替わる西部劇を参照して"ウエスタン"と呼んでいたことを撮影監督のマシュー・リバーティックが明かしているが、明らかに『レスラー』の延長戦上の活劇的感性が、とりわけ最後の15分間にしたたかに息づき、チャイコフスキーの「白鳥の湖」を実に繊細に再構築したクリント・マンセルのスコアとあいまって、積み上げてきたテンションを一気に開放へと向かわせる。ヒッチコックの『めまい』(58)を想起させる地面への死の飛翔は、厭が上にも『レスラー』のエンディングを想起させながら、アレノフスキー監督の決定的な署名をフィルムに残すだろう。

本作のリファレンスに関して、アメリカン・シネマトグラファーのインタヴュー記事(※)でアロノフスキー監督とマシュー・リーバティックは、『赤い靴』はもちろんのこと、クローネンバーグやダルデンヌ兄弟の撮影スタイルを、ニナのパラノイアの参照先としては、ポランスキー初期の傑作『反撥』(65)と『テナント』(76)を、映像のルックに関しては、キェシロフスキの遺作『トリコロール』(三部作)(93〜94)を、ダンスシーンに関しては、数あるダンス映画の中からDonya Feuer の『The Dancer(Dansaren)』(94)を挙げていたことを伝えておく。とりわけ、全てがナチュラルに見えるにも関わらず、照明技術でコントロールしていたという『トリコロール』のスタイリングされたナチュラルな照明に多くを学んだという。

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『アイアンマン2』(10)などのメジャースタジオ作品のカオティックな大作の撮影から解放されて、盟友アロノフスキー監督と共に、ニューヨークのストリートやブルックリンのプロスペクト・パークに隣接するアパートメント、そして『オール・ザット・ジャズ』(79)のセットとしても使われたのだという、ウエストチェスターにある大学の施設といった実在するロケーションで、全編16mmフィルムの手持ちキャメラを使って、40日間に一気に撮り上げたインディー映画『ブラック・スワン』は、私にとってはとても美しい体験だったと語る撮影監督マシュー・リバティークの発言が、インディーという言葉に纏わりつきがちな貧さを豪も感じさせない本作を観てしまった今、何とも頼もしく感ぜられるのは言うまでもない。やはり、こんな力技をやってのけるアメリカ映画、怖るべしである。


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『ブラック・スワン』
原題:BLACK SWAN

5月11日(水)より、TOHOシネマズ日劇他全国ロードショー
 
監督:ダーレン・アロノフスキー
脚本:マーク・ヘイマン、アンドレス・ハインツ、ジョン・マクラフリン
製作総指揮:フラッドリー・J・フィッシャー、アリ・ハンデル、タイラー・トンプソン、ピーター・フラックマン、リック・シュウォーツ、ジョン・アヴネット
製作:マイク・メダヴォイ、アーノルド・W・メッサー、ブライアン・オリヴァー、スコット・フランクリン
撮影監督:マシュー・リバーティック,ASC
プロダクション・デザイナー:テレーズ・デプレ
編集:アンドリュー・ワイスブラム,A.C.E.
衣装デザイナー:エイミー・ウエストコット
オリジナル・スコア:クリント・マンセル
音楽スーパーバイザー:ジム・ブラック、ゲイブ・ヘルファー
振付家:ベンジャミン・ミルピエ
バレエ・コスチューム・デザイン:ロダルテ
出演:ナタリー・ポートマン、ヴァンサン・カッセル、ミラ・クニス、バーバラ・ハーシー、ウィノナ・ライダー、バンジャマン・ミルピエ

© 2010 Twentieth Century Fox.

2010年/アメリカ/108分/カラー
配給:20世紀フォックス映画

『ブラック・スワン』
オフィシャルサイト
http://movies2.foxjapan.com/
blackswan/
























































































































































































































(※)アメリカン・シネマトグラファー
American Cinematographer, December 2010
「Dance Macabre」by Stephen Pizzello
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