『コズモポリス』

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マテリアリズムの極北、
引き延ばされた時間感覚が、
映画を重力から解き放つ
star.gifstar.gifstar.gifstar_half.gif 上原輝樹

クローネンバーグは、『危険なメソッド』で100年前の精神分析の起源に触れ、続く本作『コズモポリス』では、『危険なメソッド』の劇中でフロイト博士(ヴィゴ・モーテンセン)が予言したように、精神分析という"病い"が拡散し尽くした100年後のニューヨークをデリーロの「コズモポリス」に見ただろうか。2004年に発表されたドン・デリーロの原作が予見したかのように、世界は2008年に"リーマン・ショック"を経験し、西洋の没落を相対化した『ゴダール・ソシアリスム』が警告を発した2010年の翌年には"オキュパイ・ウォールストリート"が起きる。21世紀は、映画を観る者にとって、リアルとフィクションの境目が限りなく曖昧になっていく、そんな感覚を持たざるを得ない時代であると言えそうだ。

『コズモポリス』でニューヨークの街をクルーズする白いリムジンは、文明の退嬰を象徴するという意味では、『ゴダール・ソシアリスム』の豪華客船ゴールデン・ウエブ号を想起させるし、レオス・カラックスがパリでそれを見た時に白い棺桶を連想したという、『ホーリー・モーターズ』(12)に登場する"白いリムジン"も、そのようなものとして捉えて良いだろう。しかし、本作にうっすらと漂う終末的世界観は、自分が終わることの世界の終わりであって、極めてアクチュアルな、ゴダールの"社会主義の可能性提議"や、カラックスのSF的アプローチを纏った"映画=人生"とは根源的な違いを感じさせる。

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カラックスが色々な場で語った"白いリムジン"のイメージは、「コズモポリス」で"白いリムジン"を描写するデリーロの言葉(「観念的なレプリカ」「その大きさにもかかわらず重みがなく、物体というよりは思想であるようなもの」「ニューヨークで最も目立たない乗り物」)とあまりにも酷似しているとはいえ、『ホーリー・モーターズ』がSF的意匠を纏いながらも、あくまで人間的な欲動が映画の原動力になっているのに対して、『コズモポリス』のプラスティックな質感の非現実感、揺れないリムジンの中の揺れないハイテク世界のテクスチャー感は、クローネンバーグならではの物質主義的かつ、フェティッシュなイマジネーションが映画を駆動しているようにみえる。

巨万の富にまみれた若い投資家エリック(ロバート・パティンソン)は、自分が作り上げたリムジンの密室空間=肥大する自意識の中に囚われている。それを象徴するかのように、彼の語る言葉は独白に満ちていて、車のエンジン音もニューヨークのストリートの喧噪も、彼の耳には聴こえていない。原作にあったニューヨークの高層ビル群や都市の熱気の描写もここにはなく、観客もまた、エリックの脳内で肥大する自意識の密閉空間の中に囚われることになるだろう。現実感を欠いた日常を生きるエリックは、彼の日常生活の全てを司ることの出来る"白い棺桶"の中で、結婚したばかりの資産家の妻、美しいエリーズ(サラ・ガドン)の存在も顧みず、年上の愛人ディディ(ジュリエット・ビノシュ)やタンクトップ姿のシングルマザー(エミリー・ハンプシャー)とクローネンバーグ的と言うべきスタイリッシュで背徳的な戯れに浮き身を費やす。

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しかし、数十分前にはマーク・ロスコの「チャペル」を丸ごと買ってしまおうと話していたエリックの身にも破滅の足音はひたひたと近づいていた。投資していた人民元が予想を超えて暴落し、エリックの命も何者かに狙われていたのだ。そのことを妻に伝えると、妻は早々に別れ話を切り出す始末だ。理髪店に行こうとリムジンで繰り出した、ほんの2マイルの道程の内に、全ての財産を失いつつあったエリックは、失うことによって、長い間忘れていた自由の感覚を思い出していた。理髪店近くの、人気のないダウンタウンのストリートに行き着き、そこでリムジンから降りたエリックは、俊敏な動きで登場する反グローバリズムの活動家(マチュー・アマルリック)に生卵を投げつけられる。引き延ばされた自意識過剰な時間を生きていたエリックは俄に活気づき、身体感覚のリアリティを取り戻すための闘いとも、自暴自棄の破れかぶれとも判別のつかない、破滅の後へ、彷徨いながら歩を進め、やがてエリックの命を狙う暗殺者(ポール・ジアマッティ)との対面へと導かれて行く。

希代のプロデューサー、パオロ・ブランコから監督オファーを受け、6日間で脚本を書き上げたクローネンバーグが、原作に惹かれた理由として挙げているのが、劇中のダイアローグだ。クローネンバーグは、ドン・デリーロの書く会話は、ハロルド・ピンターの書く台詞のようだと語り、それは、"現実"と"観察"に根ざしていて、まさにアメリカ人が喋るような台詞であって、イギリス人ともオーストラリア人とも違う、自分はまさにそのように喋る人々を知っている、と原作に惹かれた理由を端的に述べている。生前のジョン・アップダイクは、原作「コズモポリス」について、張りつめていて頽廃的で、どこかロボトマイズされているような感じがあるとレビューで評しているが、その言葉はそのまま、映画化された『コズモポリス』にも当て嵌まると言って良い。

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しかし、デリーロの原作の会話をそのまま使っているとはいえ、本作がクローネンバーグ作品ならではの映画のリズム、素材のオーケストレーションによって、独自の創造的価値を生み出していることは紛れもない事実だ。クローネンバーグの関心は、この作品ならではのルックを発明すること、そして、デリーロが描写した"意識の流れの可視化"を可視化するという課題に向けられたに違いない。

その点で、興味深いのは、ハーモニー・コリンの怪作『スプリング・ブレイカーズ』(12)との共鳴かもしれない。この両作品に共通するのは、映画のリズムの遅さであり、時間が引き延ばされる感覚であり、それにも関わらず、決定的に"重さ"を欠いていることだ。作品の主題は、どちらも"暴力"であったり、"頽廃"であったり、"(自分の)世界の崩壊"であったりする、いずれ劣らない"重い"テーマを扱っているが、『コズモポリス』は光沢感のあるラグジュアリーな物質性、『スピリング・ブレイカーズ』はダークなキャンバスに彩度の高いエレクトリックな色彩、といったいずれもプラスティックな感覚のテクスチャーが目に与える快楽と、引き延ばされた時間感覚を湛えるナラティブが、物語の中で起きる陰惨な事態の現実感を奪い、映画を重力から解き放っていく。

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しかし、暗殺者ポール・ジアマッティが登場する終盤、ジアマッティが住まう20世紀的現実感が支配するアパートメントの一室の攻防において、ある種の演劇的な重さが画面を支配するようになるに従って、エリックを演じるロバート・パティンソンの能面的無表情が、観る者の感情を引き出すことを阻害する。あるいは、本来スタイリッシュであるべき作品にポール・ジアマッティが紛れこんだこと自体が、両者の対決の齟齬を生んでいるのかと一瞬訝るが、やはり、この場面では、ロバート・パティンソンが人間的な感情を呼び覚まさなければならかったのだろう。ちょうど、前作『危険なメソッド』(11)のエンディングにおいてマイケル・ファスベンダーがやってみせたように。


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『コズモポリス』
原題:COSMOPOLIS

4月13日(土)より、ヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館ほか全国順次ロードショー
 
監督・脚色:デイヴィッド・クローネンバーグ
原作:ドン・デリーロ
プロデューサー:パウロ・ブランコ、マーティン・カッツ
撮影:ピーター・サシツキー
プロダクション・デザイン:アーヴ・グレイウォル
編集:ロナルド・サンダース
衣装:デニース・クローネンバーグ
音楽:ハワード・ショア
出演:ロバート・パティソン、ジュリエット・ビノシュ、サラ・ガドン、マチュー・アマルリック、ジェイ・バルチェル、ケヴィン・デュランド、ケイナーン、エミリー・ハンプシャー、サマンサ・モートン、ポール・ジアマッティ

© 2012-COSMOPOLIS PRODUCTION INC. / ALFAMA FILMS PRODUCTION / FRANCE 2 CINEMA

2012年/フランス・カナダ/110分/カラー/ビスタサイズ/DCP/音声5.1ch
配給:ショウゲート

『コズモポリス』
オフィシャルサイト
http://cosmopolis.jp/



※参考:
Sight & Sound, July 2012
David Cronenberg Interview
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