『ポー川のひかり』

鍛冶紀子
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エルマンノ・オルミは決して神を否定しているのではない。神の在り方について問うているのだ。彼は根本的に神を信じている。「ポー川のひかり」は、それを前提として見なければならないと思う。

おそらく、宗教を持たない人間には宗教を信ずる人間の内は真にはわからない。だから、特定の宗教を持たない人々にとって本作は、根源的な問いを込めた映画としてよりも、ただ美しく心温まる映画としてのみ映る可能性もある。オルミの問いを受け止めるためにも、大方の人が宗教を持たないこの国では、作者の前提をあらかじめ伝えておいた方がいいと思う。

ますます混沌としていくこの世界において、オルミの問いは意義深い。ある種の行き詰まりを感じさせる今だからこそ、信心を持たないものも、この世界に生きる一員としてこの問いについて一緒に考える必要があるだろう。

でもその一方で、もしかしたら......とも思う。ただ美しい映画、それはそれでいい、とオルミは言うかもしれない。そう思わせるほど、刃をやわらかな光が覆っている。ゆるやかに流れるポー川、豊かな河岸の草木、牧歌的な時間。「神こそこの世の虐殺者だ」という過激な台詞さえも、美しい映像に紛れてしまいそうになる。

始まりは安いサスペンス映画のようだ。不穏な音楽そして響く悲鳴。しかし、映し出されるのは遺体ではなく、釘を打たれた大量の古文書。それを見た司教は卒倒するが、女検事はアートのようだとつぶやく。犯人は将来を嘱望される若い哲学者。彼はそれまでの自分を捨てるように車を走らせ、やがてポー川にたどり着く。

オルミはこの作品を「最後の劇映画作品になる」と宣言している。最後の作品を創るにあたり自身にこう問いかけたそうだ。「『何を語るのか?』『何について語るのか?』そして何よりも『誰について語るのか?』」と。そして彼は「私たちと同じ1人の人間」としてのキリストについて語ることを選ぶ。

哲学者はその風貌と叡智から、川辺に暮らす村人たちから「キリストさん」と呼ばれるようになる。物語は徐々に寓話性を帯びていく。その存在を信じるがゆえに絶望する彼が、いつの日からか住人たちにとってのキリストになっていくのだ。このパラドクス!

劇映画作品はこれで最後になるが、ドキュメンタリーは今後も撮り続けていくという。本作で言わばパンドラの箱を開けた老監督が、この先どんな現実を切り取っていくのか。期待したい。




『「ポー川」とイタリア映画の巨匠エルマンノ・オルミについて』

上原輝樹
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イタリア映画において「ポー川」という地理は特別な意味を持つ。ミケランジェロ・アントニオーニは、ファシスト政権下末期の1942年、ドキュメンタリー映画『ポー川の人々』を撮り、ポー川流域に住む貧しい人々の生活を描いた。1940〜50年代は、ドキュメンタリー映画の黄金時代と言われているが、こうしたドキュメンタリーが、現実を見つめる"ネオレアリズモ"映画誕生の素地となったことが知られており、エルマンノ・オルミもこの頃にドキュメンタリー作家としてのキャリアをスタートさせている。『ポー川の人々』と同じ年に作られた、ルキーノ・ヴィスコンティの監督デビュー作『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(1942)は、姦通と夫の殺害というハードボイルド小説の物語を、リアルな時代の空気感の中で描いたネオレアリズモの先駆的作品と言われる傑作だが、この映画のロケーションにもポー川流域が登場する。

1945年、世界にネオレアリズモの名を轟かせたロベルト・ロッセリーニの対独レジスタンス映画『無防備都市』が生まれ、同ロッセリーニの『戦火のかなた』(1946)、ヴィットリオ・デ・シーカの『自転車泥棒』(1948)、ヴィスコンティの『揺れる大地』(1948)と並ぶネオレアリズモ映画の代表作として映画史にその名を残すことになる。デ・シーカ作品を多く手掛けた大脚本家チェーザレ・ザヴァッティーニは「肥沃なポー川は、イタリア文明の父であり母であり生命の大地である」と語り、『戦火のかなた』の助監督であったフェデリコ・フェリーニは、南のシチリアから北イタリアのポー川までイタリアを縦断するロケハンを通じて「私はイタリアを発見した」と語ったという。このイタリアの地方を発見したネオレアリズモの精神は、そのままエルマンノ・オルミへと継承されていく。

エルマンノ・オルミは、1960年に『時は止まった』で長編監督デビュー、『就職』(1962)、『婚約者』(1963)を通して、ドキュメンタリー映画の制作で培った現実を見つめる手法で、農村の急激な工業化に順応できない人々の姿を通じて、精神的な痛手を被っていく地方の変遷を描いた。続く1965年、生身の人間としての教皇ヨハネ二十三世の生涯を描いた伝記映画『そしてひとりの男がやって来た』を発表、その翌年、オルミ一家は、ミラノでの都会の生活に別れを告げ、自然に囲まれたアジアーゴ高原へと生活の拠点を移す。

1978年、農民文化に啓発された名作『木靴の樹』を発表、カンヌ映画祭でグランプリを受賞し、イタリア映画史上最も国際的に成功した一作として知られているが、イタリア国内では、折しも「赤い旅団」などの極左テロ組織が政府要人の誘拐・殺害や爆弾テロ等、年間2千件を超すテロ事件を引き起こすテロリズムの嵐が吹き荒れる時節にあって、映画の登場人物の運命に対して受動的な生き方が、左翼系批評家から酷評されるという憂き目に遭う。この時代は、イタリアの「鉛の時代」として記憶され、現代に到るまで暗い影を投げかけている。奇しくも『木靴の樹』が公開された年に起きた「赤い旅団」によるモロ首相誘拐殺害事件を描いた、マルコ・ベロッキオ監督の傑作『夜よ、こんにちは』(2003)は、モロ首相を誘拐した「赤い旅団」の若いメンバーたちの追いつめられて苦悩する姿を密室劇的な生々しさで描き、当時の衝撃を現代に伝えている。

1982年、オルミはRAI(イタリア国営放送)の総裁パオロ・ヴァルマラーナと共に映画学校を創設、十年余りの間に幾多の映画監督を輩出した。オルミの映画学校は、映画一般の知識よりも、物語やドキュメンタリーの表現方法の時代に伴う変化や、プロの作家の為の実践的な表現手法などを指導すると同時に、80年代における創造的な映画理論のラボラトリーとしても機能した。同時並行で創作活動も続け、1983年にはドキュメンタリー映画『ミラノ'83』と幼児イエスを礼拝するための巡礼の旅を幻想的なタッチで描いた『歩く歩く』を発表、そして、1987年『偽りの晩餐』で再び国際的な舞台に登場、ヴェネチア映画祭で銀獅子賞に輝く。そのすぐ翌年、オルミにしては珍しくスター俳優(ルトガー・ハウアー)を起用した『聖なる酔っぱらいの伝説』(1988)で、ヴェネチアのグランプリ、金獅子賞を受賞する。

90年代に入っても、ドキュメンタリーを撮り続ける他に、テレビ放映用に聖書の第一章を映像化した『創世記、創造と洪水』(1994)を撮り上げる。2001年の『ジョヴァンニ』では、16世紀初頭に活躍したメディチ家の若き武将ジョヴァンニの人生最後の六日間を描き、巨匠オルミの映像美学の集大成との評価を受け、興行的にも成功を博した。この『ジョヴァンニ』とナンニ・モレッティの『息子の部屋』(2001)の2作品が、21世紀のイタリア映画の幕開けを告げた。2005年、アッバス・キアロスタミ、ケン・ローチと共に作り上げた『明日へのチケット』は、単なるオムニバス映画ではなく、3人の名匠が3つのそれぞれの物語を1つの物語に織り上げるという意欲的な試みによって、世界の映画ファンを楽しませた。

そして、2007年に製作された本作『ポー川のひかり』を自身最後の長編劇映画とし、今後はドキュメンタリー映画を手掛けていきたいと公言した通り、2009年には、スローフード・ムーブメント発祥の地、イタリアのピエモンテ州トリノで開かれた国際会議Terra Madre (Mother Earth)の模様を収めたドキュメンタリー映画『Terra Madre』が、イタリアやドイツ(ベルリン映画祭)で公開され、ドキュメンタリー映画の枠を超える映像美と自然との調和を訴える現代的なメッセージが高い評価を得ている。映画作家エルマンノ・オルミの、現実を見つめる"ネオレアリズモ"直系の批判精神はまだまだ健在だ。


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『ポー川のひかり』
Cento Chiodi

8/1(土)岩波ホールにてロードショー

監督・脚本:エルマンノ・オルミ
撮影監督:ファビオ・オルミ
編集:パオロ・コッティニョーラ
録音:フランチェスコ・リオタルド
衣装:マウリツィオ・ミッレノッティ
美術:ジュゼッペ・ピッロッタ
音楽:ファビオ・ヴァッキ
助監督:ガイア・ゴッリーニ
製作主任:エツィオ・オリータ
製作総指揮:エリザベッタ・オルミ
共同製作:チネマ11ウンディチ、ライシネマ
製作:ルイジ・ムジーニ、ロベルト・チクット
出演: ラズ・デガン、ルーナ・ベンダンディ、アミナ・シエド、ミケーレ・ザッタラ、ダミアーノ・スカイーニ、フランコ・アンドレアーニ

2006年/94分/カラー/イタリア/ドルビーデジタル/ヴィスタ

配給:クレストインターナショナル
©COPYRIGHT 2006 cinema11undici-Rai Cinema

『ポー川のひかり』
オフィシャルサイト
http://po-gawa.net/

エルマンノ・オルミ監督
 インタヴュー










































































































































※参考文献

『イタリア映画を読む』
柳沢一博
フィルムアート社

『イタリア映画史入門1905-2003』
ジャン・ピエロ・ブルネッタ
鳥影社

Internet Movie Data Base

『ポー川のひかり』プレス資料
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