『カプチーノはお熱いうちに』
上原輝樹
激しい雨が降りつける中、雨宿りを兼ねてバスの停留所に駆け込む人々の足元を長廻しで捉えるオープニング・ショットを、先ずはキャメラワークに注目せよとの目配せを察知しつつ眺めていると、案の定、エレナ(カシア・スムトゥニアク)とアントニオ(フランチェスコ・アルカ)の秀逸な出会いのエピソードに続いて、エレナがカフェ・タランチュラで活き活きと働く、躍動感溢れる日常の一コマを流線型のキャメラワークで見事に描き出す計算し尽くされた長尺のワンショットに出くわし、一気に映画に引き込まれる。
映画の舞台は、フェルザン・オズペテク監督2010年の作品『あしたのパスタはアルデンテ』と同じ、アドリア海に面した南イタリアの街レッチェである。主人公のエレナは、裕福な家の子息であるジョルジュ(フランチェスコ・シャンナ)、ゲイの友達ファビオ(フィリッポ・シッキターノ)、身持ちの軽いシルヴィア(カロリーナ・クレシェンティーニ)といった友人にも恵まれ、青春の日々を謳歌している。そこへ、映画冒頭で"秀逸な"出会いを果たしたアントニオが、シルヴィアの彼氏として再登場する。都会的に洗練されたエレナの友人たちと明らかに毛色が違って、自動車整備工として働くアントニオは、同性愛者や移民に対して差別的発言を憚らないマチズモ全開の男だ。
当初は、そうしたアントニオの"ダサさ"を、周囲の友人たちと一緒に嫌っていたエレナだったが、ふとした切っ掛けで、アントニオには"識字障害"があるという事実を知り、態度を軟化させて行く。そして、ある時、カフェの椅子でうたた寝をしているアントニオの横顔に見入ってしまう。ここで観客は、彼女の視線に気付いたアントニオがおもむろに目を覚まし、エレナに視線を返す、というクリシェな演出だけは止めてくれ、と瞬間的に願わずにはいられないはずだが、映画は、果たしてその通りに展開してしまう。しかし、アントニオを演じるフランチェスコ・アルカの、傷のある太い眉毛の下を水平に流れる眼差しが、怖れていた展開の陳腐さを遥かに上回る映画的瞬間を創出しており、見るものを痺れさせる。21世紀の今、このような定石通りの演出でもなお、俳優の演技は人を感動させるものなのだという事実に心が踊る。
ここから一気に畳み掛ける語り口が見事だ。カフェのカウンターで、ビールを差し出されたアントニオは、それを一口で飲み干す。野生の嗅覚が覚醒したエレナは抗い難く、アントニオに惹き付けられて行く。本作の舞台が、"南のフィレンツェ"とも称される都会的な街であることも、この逆転劇をより効果的に見せていることは間違いないが、人は、こうした瞬間を経験するためにこそ生きているのだ、と主張するかのような、男と女が互いを求め合う瞬間瞬間を積み重ねる一連の描写が、本作の掛け金になっている。
この作品を語るには臆面もなく"人生"という言葉を使うしかないのだが、"人生"に試練はつきものである。ファビオと始めた"夢のような"カフェのビジネスは見事に成功したが、愛し合って結ばれたアントニオとの結婚生活は、必ずしも順風満帆と言えるものではなかった。人生の春夏を謳歌したエレナにも、やがて秋が訪れ、そして、寒々しい冬の季節が巡ってくるだろう。それでも、アントニオは、昔日のようにエレナを愛し、若かりし日の輝かしい"記憶"がエレナの脳裏に甦る。"人生"という長い時間の中で、輝かしい"瞬間"の短い時間の記憶が現実の時間と交錯していく。フェルザン・オズペテク監督は、大らかなユーモアを発揮しながら、"時間"を描くという映画芸術の本質にまつわる試行を楽しげにやってのけてみせる。
『カプチーノはお熱いうちに』という邦題がついた本作の原題は、"Allacciate le cincture"=「シートベルトをお締めください」であるという。人生の乱気流に備えてしっかり準備をしましょう、という意味が読み取れる洒脱なタイトルだ。乱気流に巻き込まれて墜落するリスクを犯してもなお、人生は"乗る"に値する。オズペテク監督は、大らかな人々と美しい街並、穏やかな海と気候に"恵まれている"ことのイタリア的豊かさを臆面もなく動員して、人生の過酷さに対抗する。全く出し惜しみしない、とはこのような作品のことを言うのだろう。
↑
Comment(0)