『最初の人間』

上原輝樹
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「異邦人」「反抗的人間」で知られるアルベール・カミュは、46歳の若さで自動車事故のためにこの世を去った。その時、鞄に入っていた執筆中の自伝的小説「最初の人間」は、"私の最高傑作となるだろう"とのカミュ自らの予言にも関わらず、著作のエッセンスである非暴力の主張が、当時のアルジェリア独立戦争(1954~62年)という時代状況にそぐわないという理由で周囲の反対に合い、30年間日の目を見ることがなかった。1994年、娘カトリーヌの意向で未完のまま出版された「最初の人間」は、フランスでベストセラーとなり、その後世界35カ国で出版され大きな反響を呼んだ。本作はその映画化である。

映画は、主人公のジャック・コルムリが、父親が埋葬されている墓地を訪れ、墓石を撫でながら「25歳だったか、、、」と呟く場面からはじまる。若い父親を戦場で失った子は、その時、まだ生後半年の赤ん坊だったことが、墓地の管理人との会話によって明かされる。今や、ジャックは、若くして戦死した父親よりも遥かに年齢を重ねている。自分に生を与えてくれた男の短い生涯を慈しみ、実際には全く記憶のない父親、そのものであるかのような墓石を撫でるジャックの寡黙な佇まいが、本作のメランコリックな雰囲気を決定付けている。

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母を訪ねるため、故郷アルジェリアに数年ぶりの帰郷を果たしたジャックは、大学に招かれスピーチを行うことになっていた。フランス領アルジェリアでは、独立を望むアルジェリア人と在アルジェリアフランス人との間で激しい紛争が起きており、アラブ人とフランス人の共存を訴える平和主義的なジャックのスピーチは、"仏領アルジェリア"を唱える保守派の学生たちから怒号を浴び、変わりゆく現実を目の当たりにしたジャックは衝撃を受ける。社会状況の変化に戸惑う、今や高名な作家に成長した息子と彼を優しく迎え入れる母親キャサリーンが紡ぐ静謐な時間の流れの中で、彼が生まれ育った時をそのままに遺したアパートメントが、ジャックを幼い頃の追憶へと誘う。

公正さを重んじる一面を伝える"肉屋のエピソード"が描かれてはいるものの、ひたすら厳格にジャックを律した祖母、「貧乏人て何のこと?」と問うジャックに「私たちのことよ」と答える寡黙にして働き者だった若き日の母親、進学を奨めてくれた恩人ベルナール先生との出会い、ベルナール先生の授業で教わった"最終戦争"の悲劇を通じて認識した祖国"フランス"を守るために死んだ父親の"戦死"の意義、誇り高きアルジェリア人の級友ハムッドの存在、作家の生涯を形作った忘れざる人々の記憶と、ジャックがアルジェを訪れる現在(1950年代戦時下のアルジェリア)との対話を通して、20世紀を代表する作家カミュが生きた若き日の貧しいながらも恩寵に恵まれた日々、後年作家として高い評価を受けた彼を引き裂く2つの祖国、とりわけ、故郷アルジェリアへの想いが、静かな筆致で描かれていく。

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戦時下でありながら激しい戦闘シーンを排除した本作で描かれる最も悲痛なエピソードは、誇り高きアルジェリア人ハムッドの息子アジズの一件だろう。ジャックは、アルジェのアラブ地区にかつての級友を訪ねていく。そこで彼は、爆破テロ容疑者として勾留されている息子アジズの嫌疑を晴らすよう級友に頼まれる。子供の頃からハムッドの勇気ある振る舞いに尊敬の念を抱いていたジャックは、フランス政府の高官に掛け合い、その嫌疑の信憑性に疑義を呈し、勾留されているアジズを釈放するよう奔走するのだが、、。この一件が伝える、息子が父親から学んだに違いない"誇り高き振る舞い"ゆえの自己犠牲の悲痛さは、しかし、後年、アルジェリアが独立を果たすことになる"歴史"を21世紀現在の視座から見れば、何らかの"意義"があったのだと言えてしまうことのやるせなさが観るものを襲う。

ハムッドは、フランス人が19世紀にアルジェリアに入植する以前からこの地に根を張っていたアルジェリア人であり、ジャックの父親は、フランス政府のアルジェリア入植政策を受けて、この地にやってきた最初の入植者約1000人の内のひとりだった。ハムッドの息子アジズは、テロの容疑で断頭台の露と消え、ジャックの父親は祖国フランスの為に戦死した。後年の歴史家は"流血だけが歴史を進める"と語るのかもしれないが、ジャックは「作家の義務とは、歴史を作る側ではなく歴史を生きる側に身を置くことです。」と語って歴史の流れに抵抗する。

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それゆえに、ハムッドと息子アジズ、戦死した父とジャックという2組の父子の関係は、祖国という"大義"のための失われた"尊い犠牲"という紋切り型な美辞麗句に収斂されることはない。むしろ、記憶すらない父親の面影を手を尽くして追い求めるジャックの寡黙な佇まいを描きながら、『最初の人間』が慎ましくも提示しているのは、"傍観する知識人"とでも言うべき、急進的な動きと距離を置こうとする、ひとりの小市民的な作家の肖像である。その肖像は、あたかも『ハバナの7日間』(12)に登場した「反帝国主義革命の同志」であるはずのキューバ人の享楽的な実態に呆然とするパレスチナの映画作家エリア・スレイマン役の本人のようでもあり、あるいは、トマス・グティエレス・アレア『低開発の記憶』(68)の傍観者、主人公セルヒオのようですらある。父親を生後間もなく失い、母親はフランス語を読めなかった「南から来た、文化資本に恵まれない」子どもであったジャック=カミュが、1957年にノーベル賞を受賞した時にアラブの人たちに向けて発した「私は正義を信じる。しかし、もし母を傷つけたら、私は君たちの敵だ。」という、当時物議を醸したと言われる発言を、この映画はどのような流れの中に示しているか。この発言の直後に繋がれたシーンを観れば、本作の立ち位置は明らかだろう。

カミュ同様"南から来た男"であるイタリアの監督ジャンニ・アメリオ(1945-)は、鉛の時代のテロリズムを背景に父子の世代間の対立を描いた長編処女作『心のいたみ』(83)、ファシズム期のパレルモを舞台に90年代初頭のイタリアにおける政治的腐敗を描いた『宣告』(90)、イタリア南部の孤児院に幼い姉弟を連れて行く若い警官の旅を通じて国の退廃を描いた『小さな旅人』(92)といった作品における、ネオレアリズモに根ざした詩情溢れるスタイルが、イタリア国内を超えてヨーロッパ全体で高く評価されている名匠である。とりわけ、自らの出自とも無関係ではない、父子の心の葛藤を描いたドラマで高い評価を受けており、本作では、その手腕が洗練を極めている。

カミュ自身が投影されている主人公ジャックを演じるジャック・ガンブラン(『刑事ベラミー』!)、若き日の母親をベロッキオの『眠れる美女』で鮮烈な印象を与えたばかりのマヤ・サンサ、孤独に老いた母親をカトリーヌ・ソラが演じている。ジャックの子供時代を演じる子役や厳格な祖母、恩人のベルナール先生、成人したジャックに「戦争にはなりませんよね?」と問う実家近所の住人や全ての登場人物たち、アルジェの白い町と青い海、スクリーンに映る全ての表象が愛おしく、他者との共存という人類普遍の難しいテーマすら、追憶のシーンで流れるアラブの旋律のイタリア映画的というべき甘美な響きの中に、全ては夢のような追憶の時間の中に溶けて過ぎ去って行く。


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『最初の人間』
原題:LE PREMIER HOMME

12月15日(土)より、岩波ホールほか全国順次ロードショー
 
監督・脚本:ジャンニ・アメリオ
原作:アルベール・カミュ
撮影:イヴ・カペ
衣装:パトリシア・コリン
録音:フランソワ・ウァレディッシュ
音楽:フランコ・ピエルサンティ
製作:ブリュノ・ペズリー、フィリップ・カルカッソンヌ
出演:ジャック・ガンブラン、カトリーヌ・ソラ、マヤ・サンサ、ドゥニ・ポダリデス、ジャン=フランソワ・ステヴナン

© Claudio Iannone

2011年/フランス・イタリア・アルジェリア/105分/カラ―/ビスタサイズ
配給:ザジフィルムズ

『最初の人間』
オフィシャルサイト
http://www.zaziefilms.com/ningen/
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