『不気味なものの肌に触れる』

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壮大なタナトスの到来と復活劇を予兆させる、
"触れてはならない"ことのエロティシズム
 上原輝樹

『不気味なものの肌に触れる』を見てまず印象に残るのは、俳優陣から演技らしからぬ演技を引き出すことに長けた濱口竜介が脚本家高橋知由と共に成し遂げた、強力な推進力を持つナラティブとスクリーンに漲る濃厚なエロティシズムを支える圧倒的な量の緑だ。多摩川沿いで撮影されたと思しき、劇中ではどことも特定されていないその河川敷は、圧倒的に繁茂した植物に覆われており、川の流れと雨粒の滴り、幾種類もの昆虫や小動物と植物のざわめく音が、自然音というよりは、あたかもデジタルで緻密に作り込まれた電子音のような煌めきとなって緑の背景を埋め尽くしている。その豊かな音響に徐々に浸食し物語を駆動するエリック・サティの「Je te veux」は、この映画が動植物と人間が持ちうる距離の近しさを描くと同時に、<あなたを欲する>欲望を描いた物語であることを冒頭から告げている。

背筋と背骨がゴツゴツと隆起したナオヤ(石田法嗣)の背中に触れようとするチヒロ(染谷将太)は、ナオヤを<欲している>ように見える。ナオヤとチヒロが踊るのは、"触れてはならない"というルールの下、互いに抱擁し合うことを要請される、禁忌のエロティシズムが匂い立つ二律背反のダンスである。兄のトウゴ(渋川清彦)に体を触れさせないチヒロは、ナオヤに触れることを欲しているように見えるが、その行為は予め禁じられている。恐らくそれは、性倒錯を忌諱する世間的な何かというよりは、それがこの映画に課せられた"ゲームの規則"であるからだろう。世界は欲望に満ちているが、人が互いに触れることは許されていない。それはあたかも、人間の欲望をスクリーンに巨大投影する「映画」が、見るものを誘惑しながらも、観客はその欲望の対象に直接触れることはできない、その永遠に成就することのない欲望の二律背反の法則が観客を飽きずに映画に向かわせていることのメタファーであるかのようだ。もちろん、それでも観客が映画を見続けるのは、その"ゲームの規則"を超えた地点で映画が私たちを驚かせてくれるからに違いない。

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ヘドロが川底深く沈むロワール河を行くモーターボートが、人気のない辺り一面にモーター音を響かせてヨーロッパの歴史を遡行するストローブ=ユイレの『ジャン・ブリカールの道程』(08)を想起させる、トウゴとハジメ(村上淳)がモーターボートで川を登って行くシークエンスは、「あれをやらないとすまないじゃん」というハジメの全く以て謎めいた言葉で終わりを告げる。『何喰わぬ顔』(03)の夜のグラウンドでサッカーに興じる若者たちを想起させる、緑生い茂る広々とした川岸で楽しげにフリスビーに興じ始める一群は、ハジメがフリスビーを明後日の方向に投げ捨ててしまうやいなや、遊びを唐突にやめてしまうだろう。活き活きと輝き始めようとする日常のなまの瞬間は、この映画においては、悉く事前にその流れを切断されていく。あたかも、「川の底に溜まっているものがいつか打ち上げられ」て、世界の全てを埋め尽くすような洪水がやってくる、そうした決定的瞬間が映画に訪れるのを阻むかのように、不気味な気配ばかりが蓄積されていく。

喫茶店で交わされるナオヤとチヒロの会話が明らかにするのは、二人の関係性が"水"と"魚"のようなものであることだ。水は魚に"触れる"ことなく、魚を"抱擁"している。もし、水が魚に"触れる"ことが出来るのならば、魚は"接触"による抵抗が生じて、泳ぐことなど出来なくなるだろう。何かが何かに"触れる"ことが禁じられているのは、そこに"触れること"で決定的に変わってしまう関係性が存在するからだ。触れてはいけない者同士が触れた時、"事件"は起きる。しかし、それでも普通の映画のように"事件"が人を、映画的に輝かせてしまうことはないだろう。なぜなら、来るべき長編映画『FLOODS』の前日譚として構想された本作は、人が"触れてはならない"ものに触れた時、"パンドラの箱"を開けたように世界が壊れる、何よりもその"予兆としての映画"であるからだ。

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興味深いのは、人間の欲望の深淵を覗かんとする本作にポリプテレスという実在する古代魚の存在が投入されていることだ。恐らくは3.11を契機に、「アトムの雨が降る」(廣瀬純)中で構想されたと思われる『不気味なものの肌に触れる』における動植物優位の構図は、チェルノブイリで原発事故が起きて人々が去った後の野生化した土地や、バブル全盛時代、マテリアリズムが横溢する東京のど真ん中で、植物が繁茂する廃墟に多国籍の人々を集めた山本政志の『ロビンソンの庭』(87)が、行き過ぎた人間中心主義を諌める反文明的価値観をあらためて呼び覚ましたことをわざわざ想起するまでもなく、本作の通奏低音を成し、人間の進化とは何か?という映画作家の問いを、ポリプテレスという古代魚の存在を通して作品に息づかせている。しかし、そうした意義深い問いかけも、to be continued.という句点と共に宙に投げ出されて本作は事切れてしまう。

とはいえ、『不気味なものの肌に触れる』というタイトルと"触れてはならない"という禁忌のテーマが、「ヨハネによる福音書」においてイエスがマグダラのマリアに対して言ったとされる「ノリ・メ・タンゲレ(私に触れてはならない)」という文言を連想させることに触れずにいることは難しい。これは死から"復活"を遂げたイエスが、「復活した身体」に生きたものが触れることを禁じた文言だが、ジャン=リュック・ナンシーが、何もこうした禁忌は、キリスト教特有のものではなく、「触れることのできないもの」は「聖なるもの」として、「いたるところに現前している」と記述(「私に触れるな」荻野厚志訳、未来社刊)しているように、ナオヤが何らかの"復活"を遂げた存在であるのだとしても、それほど荒唐無稽な話であるとは思われない。現に、ナオヤと明らかに近しさを感じさせる存在である古代魚のポリプテレスに噛まれた者たちの、絆創膏で隠された手の甲には、イエスが磔刑に処された時に釘で手を貫かれた、その聖痕が残されているのかもしれないのだから。


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Comment(3)

Posted by Harty | 2016.12.18

〉たつやさん
ダウンロードはできますよ!
https://loadshow.jp/films/8

Posted by 編集部 | 2016.01.12

2016年1月現在、DVDは発売されていないようです。

Posted by たつやさんさん | 2016.01.12

この映画のDVDなどは出ていないのでしょうか?

『不気味なものの肌に触れる』

3月1日(土)-3月14日(金)2週間限定ロードショー
 
監督:濱口竜介
脚本:高橋知由
撮影:佐々木靖之
音楽:長嶌寛幸
制作:城内政芳
製作:LOAD SHOW, fictive
助監督:野原位
プロデューサー:北原豪、岡本英之、濱口竜介
振付:砂連尾理
音響:黄永昌
出演:染谷将太、渋川清彦、石田法嗣、瀬戸夏実、村上淳、河井青葉、水越朝弓

© LOAD SHOW,fictive

2013年/54分/HD/16:9/カラー
配給:fictive

『不気味なものの肌に触れる』
オフィシャルサイト
http://loadshow.jp/film/touching-the-skin-of-eeriness

オーディトリウム渋谷にて2週間限定ロードーショー
http://a-shibuya.jp/archives/8902

同時開催!「濱口竜介プロスペクティヴin Tokyo」
http://a-shibuya.jp/archives/9210
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