『さらば、愛の言葉よ』

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上原輝樹

一組の女と男、ジョセット(エロイーズ・ゴテ)とギデオン(カメル・アブデリ)が出会い、愛し合った末に諍いを起こす。そこへ一匹の犬(ロクシー・ミエヴィル)が現れ、季節はめぐり、やがて二人は再会する。いつの間にか、犬はそこに居着いていて、登場人物は三者になっている。そこへ、女のかつての夫が現れ、すべてを台無しにしてしまう。第一章<自然>は、そこで幕を閉じ、第二章<メタファー>では、同じ物語が、姿格好の似た別の俳優、ゾエ・ブリュノー(イヴィッチ役)とリシャール・シュヴァリエ(マーカス役)によって繰り返し演じられる。そして、映画は犬の鳴き声と赤ん坊の泣き声で終わる。ジャン=リュック・ゴダール、自らが書き記した本作のシノプシスはそのようなものだ。

第一章<自然>と第二章<メタファー>で同じ物語が別の俳優たちによって演じられるという二重構造と、蓮實重彦が、邦題で「さらば」と訳されている原題の一部「adieu」は、スイスのフランス語圏や南仏地方の一部では「こんにちは」程度の挨拶や「祝福」を意味する言葉として用いられている、と指摘しているタイトルの持つ二重性は、スイスとフランスの二重国籍を持つゴダールの有名な"二重性"に符合するのみならず、2個のレンズを並べて撮影する3D映画の技術的特徴とも語呂合わ的に符合している。そうした3D映画の技術的制約が、本作の二重構造を演繹的に生み出したことは想像に難くない。今から約58年前に、クロード・シャブロルとエリック・ロメールがヒッチコック作品について記した「形式が内容を創造する」という映画芸術の本質を顕す言葉と見事に共鳴する映画作りを続けているゴダールの律儀さに妙な感慨を覚える。

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この3D映画という形式が孕ませたに違いない物語の二重性は、(デヴィッド・ボードウェルが挙げているところでは、ホン・サンス監督作品や)ネッド・ベンソンの『ラブストーリーズ コナーの涙|エリナ―の愛情』(13)において、ひとつの事象を、妻(ジェシカ・チャステイン)と夫(ジェイムス・マカヴォイ)、それぞれの視点から描かれる「真実がパラレルにそれぞれのリアリティを構成する、ジャンル映画の中で行われた、優れて現代映画的な試みや、三宅唱の『Playback』(12)における俳優たちの肉体を借りて、時空を超える差異と反復の物語の二重性、ミア・ハンセン=ラブの『グッバイ・ファーストラブ』(11)において、主人公のライフサイクルの中で弧を描くように繰り返し浮き上がってくる依存症の反復性、セバスチャン・ベベデールの『2つの秋、3つの冬』(13)やギヨーム・ブラックの『やさしい人』(13)における、二つの異なるルックとリズムを持ったジャンル映画的前編/後編がひとつの映画を構成する形式の断片的二重性、こうした若い映画作家たちが果敢に挑戦している、日常生活を"反復"として描くことで、忘却に抗って映画的瞬間をスクリーンに繋ぎ止めようとする現代映画的試みと、見事に並走しているように見える。もちろん、ゴダールこそ、こうした現代映画の先駆者なわけだが、作家の実年齢を考えると、その若々しさにやはり唖然とさせられる。

蛮行を繰り返して来た人類は、もはや、神に見捨てられ/神を見捨て、男と女は仲違いし、女は子どもをつくることを拒絶する。共存に失敗した人類を歓待してくれるのは、もはや犬しかいないという虚構上のペシミズムに相応しく、この映画には、いわゆる"マスターショット"や"エスタブリッシング・ショット"と呼べるようなショットはなく、その多くは、『(複数の)映画史』以降のゴダール的引用の数々と、「犬の視線」(平倉圭)、そして、たまたまそこに落ちていたカメラが捉えたかのように偽装された、反物語映画的、反人間主義的とも言える大胆な語りのスタイルで構成されている。本作はその点からも、20世紀の映画的現実において都合良く搾取され続けて来た"女性""子供""動物"の表象に熱い視線を注いだ前作『ゴダール・ソシアリスム』(10)のアナーキズムの発展形であると見ることができるだろう。

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そうしたゴダールのアナーキズムは、『動物を追う、ゆえに私は〈動物で〉ある』においてジャック・デリダが自らの著作のタイトルに関して記した「この表現は、自画像の不動の表象を描くものであってはなるまい。それはむしろ、息切れしつつ走ること、動作学ないし狩猟学、迫害の、ゆえに私がそれであるあの動物を、あるいは私が私の経験を報告することで追うものとされるあの動物を追跡する狩りの、動く映像(=映画)の痕跡の数々に、私を入り込ませ拘束するものでなくてはなるまい」というラディカルな反人間主義的姿勢と共鳴し、そもそも「動物(animal)」という語の使用そのものが、「人間が他の動物たちに行使する最初の暴力」なのであり、「動物」とは、人間が措定した「形而上学的概念である」に過ぎないというデリダの主張に逆説的に呼応するかのように、「人間」を裸のままで室内を歩き回り、そのままの姿で排泄する「動物」の一種として描くに至っている。

そして、最後には、野生の犬を主人公に据え犬目線で過酷な自然の生を描き、"文明"と"野生"の二元性を様々な対比で変奏したアメリカ人作家、社会主義者としても知られたジャック・ロンドンにオマージュを捧げるのだ。ここでゴダールが、メルヴィル・ロクシーの"後を追って"犬目線で描いた"映画的自然"は、例えば、つい先日見る機会を得たばかりの、フランス映画の知られざる巨匠ジャン・エプシュテインが『海の黄金』(31)や『テンペスト』(47)において"神の視点"で描いた神々しいまでの"映画的自然"と比較すると、その70年間弱の間における"映画的自然"の変容の凄まじさに目眩を覚えてしまう。

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それと同時に、「カイエ・デユ・シネマ週間」で上映されたブリュノ・デュモンの『プティ・カンカン』(14)におけるフランドル地方の光が目映いばかりの絶景に、人間の手が介入した"映画的自然"の不穏なまでの美しさや、オレリア・ジョルジュの『少女と川』(14)、ジャン=セバスティアン・ショヴァンの『子供たち』(13)といった作品群が捉えたクリスタルクリアで瑞々しい"映画的自然"と比較しようとしてみても、本作が3Dで成し遂げたスペクタルな奥行き感と"息切れしつつ走る"中で、突然対面してしまったような、新鮮な身体的感覚を呼び覚ます、本作の凶暴さと比較することは難しい。むしろ、これらの作品が想起させるのは、『勝手に逃げろ/人生』(79)に始まる80年代ゴダールの一連の作品におけるレマン湖畔の緑豊かな瑞々しい田園風景であって、本作における"映画的自然"はもはや人間の視点で描かれることをやめて、"動物を追う、ゆえに私は〈動物で〉ある"ところの「動物」の視点で捉えられたものに措定されているからだ。

本作で語られている主題は、かつてないほどシンプルで力強い。しかし、本作が常道を逸して突き抜けているように見えるのは、ひとえに「形式が内容を創造する」、ヌーヴェルヴァーグ的というよりは、ゴダール的と言うべきかもしれないラディカルな方法論を突き詰めて、3D撮影技術が今まさに発明されたのだ、という手つきでこの映画が作られているからに他ならない。カメラは、登場人物たちの人物像を確立すべく被写体を捉えるのではなく、登場人物を特徴づける"顔"をフレームに収め損ねた斜めの構図で、かろうじて人物の動きを捉えている。それは、『ホーリー・モーターズ』(12)においてカラックスが、ミシェル・ピコリに「カメラはどんどん小さくなっていく」と語らせた事態を更にその方向に推進し、カメラの人工的な無作為性を高めているように見える。当然、そこから得られる映像(情報)は、極めてゴダール的に断片化し、語りは省略されている。

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それでも、映画冒頭、<ガス工場>の前で赤毛の女性(マリー)と若い男が、屋台の本を手に取って読み始める、あの一連のショットの、人類が初めて3Dで知覚することの出来た奇跡的な美しさに触れたとき、この21世紀という世知辛い時代にあって、これほど純粋に映画を再発明しようとして、それを成し遂げてしまう、ゴダールの若々しく、軽やかな魂に感動を禁じ得ない。しかも、巨匠と仕事をするのだという感動を隠さない、初々しさに満ちた(「ユリイカ」特集ゴダール2015に掲載されている)ゾエ・ブリュノーの手記において、ゴダールが如何に、撮影で使われる洋服や俳優たちのルックに拘っているか、といったことや、かつてアンドレ・ブルトンの所有物だったネクタイ・ピンが巡り巡ってゾエの母親の所有物となり、やがては本作に登場するに至ることになる挿話を知るにつけ、この作品に散りばめられた細部の豊さが後学の知識によって緩やかに解凍され、その密やかな知的興奮の時空を超えた旅が、映画を見終わった後に拡がって行く、その喜びを否定することは難しい。目を身体的に襲う疲労と闘いながらも、もう一度見たいと思わずにいられない、あのゴダール的な厄介さに、すっかり巻き込まれているのだ。

ゴダールの映画は、映画と能動的に向き合おうとする(映画作家もその一部であるはずのところの)観客たちによって常に擁護、称揚されてきた。ヴェンダースとヘルツォークの3D映画は、アート・フィルムと3D技術の相性の良さを感じさせてくれたが、本作は、それらの作品ですら優等生的な佇まいに収めてしまうほどの破壊力で、21世紀の若い映画作家たちを刺激するのではないか、という"未来"に対するロマンティックな希望を惹起させてくれる。"Future is now / 今が未来"なのではない。カントの統制的理念がそうであるように、"未来"はあくまでも未来にあり続け、私たちは、"息切れしつつ走り"続けるが、来るべき"未来"に追いつくことはない。その消尽不可能な煌めきを目指して、私たちは何度でも発明を繰り返して、歩み続ければ良い。それが可能であることをゴダールが身を以て示してくれている。


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Comment(1)

Posted by PineWood | 2015.06.25

本作を見た印象は(映画史)でのフッテージや(ソーシャリズム)での鮮やかな画像の断面の記憶だ。そして男女の身体裸像と身体から出る音などや犬の眼や自然な振る舞いだ。TV 或いはビデオを観賞する登場人物や引用によるテキストの断章だ。アラン・レネ監督の遺作がブレヒト劇での異化効果にみちた切断されたシーンの中での愛のヒューマンコメデイであり地下に住む愛らしいもぐらくんの言葉であるとしたら、ゴダールによる愛の言葉は、男女の愛の言葉を超えた野生の或いは犬の視線による映像コラージュとしての言語或いは表象なのかも知れない。
システーナ礼拝堂を埋め尽くした神々たる人間像の喧騒感すらある
ミケランジェロの天井画のように、ゴダールは身体表現に3D を活用しようとしたー。ヴィム・ヴェンダース監督の(ピナ~踊り続ける生命)が正にコンテンポラリーダンスの身体表現にそれを応用しようとしたようにー。ウエルナー・ヘルッオーク監督のゴツゴツした洞窟内の野獣の体にそれで光を充てようとしたようにー。

『さらば、愛の言葉よ』
英題:GOODBYE TO LANGUAGE 3D

1月31日(土)よりロードショー
 
監督・編集:ジャン=リュック・ゴダール
撮影監督:ファブリス・アラーニョ
製作主任:ジャン=ポール・パタジア
出演:エロイーズ・ゴデ、カメル・アブデリ、リシャール・シュヴァリエ、ゾエ・ブリュノー、クリスチャン・グレゴーリ、ロクシー・ミエヴィル

© 2014 Alain Sarde - Wild Bunch

2014年/フランス/69分/カラー
配給:コムストック・グループ

『さらば、愛の言葉よ』
オフィシャルサイト
http://godard3d.com

参考文献:
「ユリイカ」特集ゴダール2015
「MONKEY」特集ジャック・ロンドン 新たに
「動物を追う、ゆえに私は(動物)である」ジャック・デリダ
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