ジム・ジャームッシュの新作は、"ゾンビども"が蔓延りすぎて汚染された現代の地球をヴァンパイアが生き、そのヴァンパイア姉妹を、ティルダ・スウィントンとミア・ワシコウスカが演じる、21世紀のうんざりするような現実と映画ならではの夢が浸食し合う、ジャームッシュならではのノワール・フィクションに仕上がっている。
回転する星空が、回転するアナログレコードを捉えたショットへと繋がり、"宇宙"と音楽を奏でる"レコード盤"が溶け合うという、これ以上本作の始まりを告げるのに相応しいメランコリックなショットの連なりもなかったと後になって思わせる、完璧なシークエンスがジャームッシュ版ヴァンパイア映画の始まりを告げる。ヴァンパイアの永遠に続く生の時間の感覚に呼応したようなドローン効果がミキシングされたサウンドを響かせるレコードのショットに切り返して、ベッドに仰向けに横たわる二人、アダム(トム・ヒドルストン)とイヴ(ティルダ・スウィントン)の姿が映し出されて行く。
この瞑想的なオープニングを支配している楽曲「Funnel of love」を歌うワンダ・ジャクソンは、ロックンロール・オブ・フェイムにも選ばれている女性ロックンロールローラーのパイオニアだが、ジャームッシュの盟友ジャック・ホワイトがプロデュースした新作によって、改めて彼女の強烈な歌声に感電したファンもいるに違いない。またしても、ジャームッシュは、『ストレンジャー・ザン・パラダイス』(84)におけるスクリーミン・J・ホーキンスのあの歌がそうだったように、忘れ去らざるミュージック・レジェンドの存在に慎ましやかにスポットライトを充ててみせる。音楽への欲望は、常にジャームッシュを映画に向かわせる原動力であり続けているのだろう。
アダム(トム・ヒドルストン)とイヴ(ティルダ・スウィントン)のヴァンパイア夫婦が、そもそもどのように出会って夫婦となったのかについては、"最初の人間"としてふたりが描かれた、人類最初のフィクションである旧約聖書の『創世記』やマーク・トウェインの『アダムとイヴの日記』でも読んで補うのが良いかもしれない。21世紀において、アダムとイブは別居しており、アダムはデトロイト在住のアンダーグラウンド・ミュージシャン風情、イブは、敬愛する年配のヴァンパイア作家マーロウ(ジョン・ハート)を匿いながらモロッコのタンジールに身を潜めて暮らしている。彼らは、iPhoneやインターネットといった現代のテクノロジーを普通に駆使してコミュニケーションを図っているが、この世の"ゾンビども"の行いを儚んで憂鬱な気分を深めてゆくアダムを想って、イヴはデトロイトを訪れることになる。
人気のない、廃墟と化したかのようなデトロイトの夜を捉えたショットの虚ろな美しさは、『ミステリー・トレイン』(89)のゴーストタウンと化したメンフィスの夜、そのものの記憶を呼び覚ましながらも、ヴェンダースが捉え続けてきた"最後のアメリカ"への郷愁とは何かが決定的に異なる、より救いのない風景をスクリーンに写しだしている。それは、"最後のアメリカ"というよりは、"地球の最後"とでも形容すべき、メランコリックな空虚であるかもしれない。しかし、その地を車で走らせるイブは「ここにはまだ希望がある。きれいな水があるから。」と呟くだろう。"ゾンビ"的なるものが根絶やしになってから、再生する生命の力をこそ、ジャームッシュは夢想しているのかもしれない。
だから、モータウンとスタックスの歴史が交錯するデトロイトと往年のビート作家の存在を仄めかすタンジールはともかく、本作において、ジャームッシュにしては珍しく饒舌に参照される、エディ・コックラン、クリストファー・マーロウ、フィボナッチ、シェリーとシェリーの母親メアリ・ウルストンクラフト、バイロン、ニコラ・ステラ、チェット・アトキンスといった、人文科学やロックンロールの歴史を彩ってきた固有名にこだわることにどれほどの意味があるかは疑問だ。『リミッツ・オブ・コントロール』(08)で「世界に散らばり自由に動き回る"モレキュール"たち」が本作においてはヴァンパイアに転生しているだけで、ジャームッシュがフィクションの世界において、世界転覆を企んでいるその試みには寸分のブレもないし、映画作家の人間的な成長や成熟などといった次元の違う話に回収することも意味がないだろう。ジャームッシュは、彼の、奇妙な形で現実が織り交ぜられた眉目麗しいフィクションにおいて、鳴らしたいサウンドで空気を振動させ、実在するモレキュールたち=ヴァンパイアたちにサインを送り、思考を促し続けることしかしていないのだから。
欲を言えば、ミア・ワシコウスカの吸血シーンを見たかったと言いたいところだが、男女の肉体的な交わりをあからさまにスクリーンに映し出すことをしないジャームッシュにしてみれば、これだからゾンビどもは困ると言われるのが積の山かもしれない。
Comment(1)
Posted by Michellejunky | 2014.01.04
どこから説明しようか...そんなことにも悩むぐらいのカッコよさ
今回は吸血鬼のラブストーリーと聞いて、えっ?!どうした?らしくないぞと思いきや
そんなコテコテのラブストーリーをジム・ジャームッシュが撮るわけもなく
ラブストーリーではあるが、ジム・ジャームッシュお得意のロードムービーでもある
時代に逆流するような拘りを持ち続けるアダムと、時代の流れを取り入れつつも自分らしさを持つイヴの恋の行方
レコードを流すところからこの物語は始まる訳だが、これは作品のテーマへの伏線になっている
変な誇張もなく、主人公がヴァンパイアであったとしても、何気ない日常を描き続けるジム・ジャームッシュの特徴が今回もしっかりと活きていたように思う
前作「リミッツ・オブ・コントロール」から、アメリカ以外も作品の舞台にし始めたジム・ジャームッシュ
デトロイト、タンジールのロケーションが特に素晴らしい
作中は殆ど夜のシーンだが、ドライブのシーンで映るデトロイトやタンジールの街や建物、そのひとつひとつのシーンが物凄く印象的だった
それらを切り取って写真展を開きたいぐらい
ジム・ジャームッシュの手にかかると、何気ないシーンでもより美しく感じる、それはまるでマジックのよう
建物や街の撮り方に、彼なりの拘りを物凄く感じる
そして、今回も挿入歌含め全ての音楽が最高!と思ったら、ジム本人も音楽を担当していたようで
もう一つ印象に残ったのが、浮世離れしたアダムの部屋がアンティークだらけで、めちゃくちゃお洒落
あんな部屋に住みたいもんだ
イヴ役はジム・ジャームッシュの最近のお気に入りティルダ・スウィントン、知的そうでこの人好きだわ〜
アダム役のトム・ヒドルストン、マーロウ役のジョン・ハートもいい味出してたけども、エヴァ役のミア・ワシコウスカに持ってかれちゃってたな
今回の物語は吸血鬼のラブストーリーではあるが、テーマとしては現代批判を含んでいるように思えた
拘りもなく、時代に流される現代人を“ゾンビ”と揶揄し、拘りを持つ数少ない吸血鬼が絶滅に追いやられている
そう、このテーマが最初のレコードのシーンから既に謳われている
時代に流されることなく、拘りを持ち続け、夜型の生活を送る、いつの時代の詩人や音楽家などの所謂アーティストたちは、まるで吸血鬼のようだと作品を通して思えた
この作品は、そんなアーティストたちにジム・ジャームッシュなりの敬意を込めた作品なのかもしれないと観終わってふと思った
感覚を研ぎ澄ませて、センシティブに感じるがままに感じれば良い
今回も期待を裏切らなかったジム・ジャームッシュ、お好きな方はぜひ劇場へ