『ヒッチコック/トリュフォー』

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『ヒッチコック/トリュフォー』、50年の時を経て完結されたプロジェクト

坂本安美(アンスティチュ・フランセ日本 映画プログラム主任/映画批評)

1962年にトリュフォーは、ヒッチコックに宛てた手紙で以下のように書いている。
「外国のジャーナリスト、とくにニューヨークのジャーナリストと議論をしていると、あなたの映画についての彼らの考えが非常に表面的であることに気付かされました。さらに私も編集に携わっている「カイエ・デュ・シネマ」による(あなたへの支持を表明する)宣伝活動(プロパガンダ)はフランスに関する限り効果的でしたが、あまりにもインテリ過ぎたためアメリカでは効果を得ていません。自分自身が監督になって以来、あなたへの賞賛の念はまったく薄れることなく、その逆に、形を変え、さらに高まっています。映画へ愛を抱いている監督はたくさんいますが、あなたの愛はフィルムそのものへの愛であり、そのことについてぜひあなたとお話がしたいと思っています。約8日間、合計30時間ほどかけてインタビューをさせて頂き、いくつかの記事にするのではなく、一冊の本にしてニューヨークとパリで同時に出版し、ゆくゆくは世界中で出版したいと思っています。」
手紙を受け取ったヒッチコックは次のように返答する。
「親愛なるトリュフォー 涙が出るほどうれしい 感謝をこめて。」

この手紙が書かれたのが6月、そのほぼ2ヶ月後の8月13日、ヒッチコック63歳の誕生日からスタートしてほぼ一週間の間、ユニバーサル・スタジオの会議室にこもり、トリュフォーとヒッチコックは朝から晩まで対話を続けた。1966年に最後のインタビューが行われ、同年、「映画術 ヒッチコック/トリュフォー」がまずフランスで出版、そしてほぼ同時に英語版がアメリカで出版される。それからほぼ50年後に『ヒッチコック/トリュフォー』が映画となって世界中の映画ファンのもとに届けられる。本作についてのあるトークで、映画批評家の廣瀬純がいみじくも述べていたように、ケント・ジョーンズによる映画『ヒッチコック/トリュフォー』は、トリュフォーが当時、ニューヨークのジャーナリストたちによるヒッチコックへの表面的な評価に納得がいかず、アメリカ、そして世界中に、ヒッチコックが世界で最も偉大な監督あることを知らしめるためにスタートしたプロジェクトが、まさにニューヨークの映画批評家、監督であるジョーンズによって50年後に完結された。そう高らかに宣言できるほど、本作は、トリュフォー自身がそう呼んでいたところの"ヒッチ・ブック"の核心に迫り、映画史を辿り、現在にまで繋がる優れた作品となっている。そのことをここで確認したいと思う。

ふたりの出会い、本との出会い

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"ヒッチ・ブック"映画化の企画には、ふたりのインタビュー音源の存在があった。トリュフォーのオフィスで発見されたその音源が本作の冒頭からすでに聞こえてくる(※1)。「なぜヒッチコック映画は時代遅れにならず、よく持ちこたえているのだろう?私には分からないんだよ。」文字にすると自画自賛をしているかのように読めるかもしれないが、自分の作品が「よく持ちこたえている(stand up well)」ことの理由を素直に自問しているのがヒッチコックの声から感じられる。その問いに対してトリュフォーはこう答える。「あなたの作品には厳密なスタイルがあって、それは時代を超越し、あなた自身との関係において存在しているからではないでしょうか。」トリュフォーの言葉に「なるほど」と、納得するヒッチコック。こうしてふたりの声を聞きながら、私たちは、ここで行われている対話が、若き監督トリュフォーによる巨匠ヒッチコックへのインタビューであるだけでなく、ふたりの監督による映画作りについての真のやり取りであることを徐々に確認することになる。

そしてこのふたりの対談に加わっていくのが、デヴィッド・フィンチャー、ウェス・アンダーソン、ジェームス・グレイ、オリヴィエ・アサイヤス、ポール・シュレイダー、ピーター・ボクダノビッチ、リチャード・リンクレイター、黒沢清、マーティン・スコセッシ、アルノー・デプレシャン、現代の映画を牽引する10人の監督たちだ。映画が進むにつれ、彼らの言葉が、50年前のヒッチコックとトリュフォーのやり取り、そして彼らの作品の抜粋と見事に連動し始める。彼らはまず"ヒッチ・ブック"との出会い、その一冊の本によってどのように映画作りへと導かれていったのかを語る。スコセッシは「この本を読み、映画でできることの可能性が大きく開かれた」と述べる。

そしてヒッチコック、トリュフォーそれぞれの人生が辿られていく。映画の誕生とともに生まれ、本国イギリスでその技術のすべてを一から学び、さらにその技術を最大限に試せる場、ハリウッドへと移住したヒッチコック。親によって感化院に入れられ自由を奪われ、孤独な幼年時代を送ったトリュフォーは、映画の世界へと入り、批評家になり、自由を求めて闘う監督の存在を擁護すべく、"作家主義"という理念を掲げ、自らも監督となる。こうして異なる世代、異なる世界にいながら、ふたりの人生が出会うべくして出会ったのだということを私たちは確認する。

映画の基本的要素

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それでは、この本から10人の映画狂たちはどんなことを学び、世界を代表する監督たちへと成長していったのだろうか。「ヒッチコックはなにより映画についてもっとも基本的で単純なことを教えてくれる」とフィンチャーは述べる。たとえば、映画でストーリーを語ること、その筋道を見せること。ヒッチコックはこう答える「ストーリーの筋道(ロジック)、そんなものは退屈だよ。観客が見せたいものを見せるんだ」。映画とは、まずもって光と影であり、空間、時間である。そうした映画の基本的要素をいかに操ることができるか、そしてそのことからいかにサスペンスが生まれるのか、ヒッチコックはあくまでも具体的に語ってくれる。

『鳥』(63)でティッピ・ヘドレンが家の中で鳥の襲来の恐怖に駆られるシーンに、その空間演出を具体的に説明するヒッチコックの声が重なる。「重要なのは映像のサイズだと思う。空間をどうとらえるか。空間をどうドラマチックに使うかだ。メラニー(ティッピ・ヘドレン)がおびえて後ずさりする時にはキャメラを引いたまま空間を無にすることで後ずさりできない状態を示すのだ。」そして時間について、「時間を映画的に長くしたり短くしたり...」とトリュフォーが述べると、「そう、それが映画の醍醐味だからね」と答えるヒッチコック。「そして時が止まることもある」というヒッチコックの言葉から、トリュフォーが『大人は判ってくれない』(59)で主人公の少年による母親と見知らぬ男とのキスを目撃するシーンを例に挙げると、ヒッチコックはそれについて詳しく描写するように促し、自分ならこうしているだろうとコメントをする。製作状況も作風も、経験も異なりながらも、映画を語る言葉は同じであることが二人のやり取りから確認でき、感動的だ。

そうした空間、時間の演出を臨界点まで押し進めたと言える『汚名(※2)』(46)におけるイングリッド・バーグマンとケーリー・グラントのキスシーンについて黒沢清は次のように述べる。「まさにあのキスシーンは悪魔的であり、ふたりの顔をずっと撮っているが、顔を撮っている分、他の部分がどうなっているのかまったく分からない。」その黒沢清の言葉を受けるようにウェス・アンダーソンが「部屋の中を壁に沿ってずっと歩きながらキスし続ける。歩きながらずっとキスをするなんておかしいと俳優たちは呟いただろうが、ヒッチコックはそれを見事にフレームにおさめ、緊張感もその魔法も途切れることがない」と続ける。

俳優たち、時代の変化

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アンダーソンによれば「魔法のような」、黒沢清の言葉を借りれば「悪魔的な」、このシーンには、まさにバーグマン、グラントのような二大スターの存在が不可欠であり、ヒッチコックはそのことを強く意識していただろうとフィンチャーは指摘する。「俳優の演技は映画にとって重要な要素だが、唯一の要素ではない。ヒッチコックは(スクリーンにおける演技という)言語に構造があることを最初に示した一人だった。彼は誰よりも登場人物の心理を掘り下げたが、俳優たちにそこに自分たちの感情を用いることを許さなかった。」しかし「第二次世界大戦によって人々は妄想、偏執、不安、そして私たちは何者かという根源的な問いを抱くことになる」とスコセッシは語る。「戦争による分断、そして変化が訪れる。そしてスクリーンの中の演技にも大きな変化が現れる。俳優が映画の主要な構成要素となった。マーロン・ブランド、ジェームス・ディーン、モンゴメリー・クリフトがそうした時代を体現するようになる。ヒッチコックはケーリー・グラント、ジミー・スチュワート、グレース・ケリーらスターの魂を引き出したがそれとは別の伝統が現れるんだ。」

ヒッチコック:思い通りに俳優が演技してくれない時はどうするのかね?
トリュフォー:現場では文句をつけず、夕食後に話し合ったり、言葉遣いに合わせて、台詞を書き換えたりします。次の日に撮り直しをするために、ほとんど即興ですが。
ヒッチコック:いつも、こんなジレンマに悩まされている。このままわたしなりに追求してきたストーリーの上昇曲線(ライジングカーブ)にのっとったかたちで進んでいくべきなのか、それとも、もっと自由に語り口を変えて実験してみるべきなのか、というジレンマだ。

時代の流れとともに、映画の中の俳優のあり方、それにともないストーリー・テリングも変化していく。シチュエーションを中心とすべきか、登場人物を中心とすべきか......。映画のモデルニテの到来を意識しながら、自分の進むべき方向性についてジレンマを抱え、模索していたことを、ヒッチコックはトリュフォーに率直に伝え、それはもちろんトリュフォー自身の問題意識でもあった。

夢とリアル

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トリュフォー:あなたはよく夢を見ますか?
ヒッチコック:あまりみないな...(...)
トリュフォー:あなたの映画は夢そのもの、まったく夢魔的なものだと仰っていましたが...。
ヒッチコック:夜みる夢とはちがう、白昼夢そのものだ。
トリュフォー:意識下の表現ということです。周囲のあらゆるものが敵意をもってせまってくる、そんな孤立無援のひとりぼっちの人間を描くことによって、あなたは、おそらく無意識のうちに、夢の領域に入り込んでいる。その夢の領域が孤独と危険の極みであることもまた、たしかです。
ヒッチコック:たぶん、それはわたし自身の内部(なか)のわたし、ということになるだろう。

『間違えられた男』(56)について、デプレシャンは以下のように語る「僕にとって『間違えられた男』はヒッチコックの中でも最も美しい映画の一本だ。真の犯人と間違えて容疑者となった男との間に罪の転移があり、そして間違えられた男がその罪で苦しみ、その妻に罪の償いの転移があり、彼の代わりに苦しむことになる...犯人と間違えられた男、そしてその妻、3人の間で罪が転移し、妻は気が狂う......本当に驚嘆させられる。ひとつひとつの仕草、瞬間、オブジェに対して共感し、感情移入していなければこんな映画は作れないと思う。ヒッチコックの映画の底にはつねにこうした罪の転移がある。」

「罪悪感」、「罪の転移」という問題とともに、本作で多くの監督がコメントをしているのがヒッチコック映画と夢との関係についてだ。ふたたびデプレシャンは以下のように述べている。「ヒッチコック映画の中のスクリーンプロセスは非常に複雑な役割を持っている。現実のショットでありながら、人物はまるで夢の中にいる、つまり人物はリアルであり、世界がまるで夢が投影されたスクリーンのようであり、現実のショットが幾重にも分裂している。ロケで撮れるところをスクリーンプロセスで撮る、そこには彼の執着がある。複数の異なる現実のショットが存在している世界を描こうとする探求が。」(デプレシャン)。
夢とリアル、いよいよ『めまい』(58)へと進んでいく。

『めまい』、映画=人生

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間違えなく、この『めまい』を巡る部分が『ヒッチコック/トリュフォー』の最高潮といえるだろう。ふたりのやり取りからも、この作品への思いが並々ならぬものであることが感じられる。

トリュフォー:『めまい』は本当に美しい、あなたの作品の中でも最も詩的で、ドラマチックな作品です。そしてこの作品には夢のような側面があり、あなたのいつもの作品のたたみこむようなスピード感とは対照的に、思弁的でゆるやかなリズムがあります。
ヒッチコック:それは感情的(エモーショナル)な男の視点から語られているからだ。

フィンチャーは「いつも僕が興味を引かれていたのは、もっと興味深いかもしれないと思っていたのは女のほうの物語、彼女の視点だ」(※3)と語る。「しかし『めまい』はスコッティ(ジェームス・スチュアート)の視点から語られ、それはまさにヒッチコック自身の視点だ。(...)映画監督が、作品の中で、それがいかがわしいものであれ、高貴なものであれ、自分が本当に興味を持っていることを隠せるなんて思ったら、そいつは気が狂っているね。でもやるならとことんやろう、自分自身でいようと、とその潜在意識の核心をえぐり、ほとんどはじめて、しかもここまで大胆に見せたのがヒッチコックだ。『めまい』は彼の最高傑作だよ。」

ヒッチコック:この映画には、もうひとつ、〈心理的性交〉とでも呼ぶべき一面がある。この世では不可能な性的イメージを追う男の話だからね。もっと単純に言えば、この男は死んだ女と寝ること、つまり屍姦に夢中になっているわけだ。

フィンチャー的に言えば、「あまりにも倒錯的な」そうした「〈心理的性交〉の側面」についてグレイは「この作品は欲望についての映画だ、でもそれは私たち誰もが理解できるものだ。それは私たちの存在の一部なのだから」と述べる。そしてキム・ノヴァックがバスルームから出てくる、かの有名なシーンについて「映画史上最高のシーン」と熱く語る。「あのシーンは、ヒッチコックのすべて、映画のすべての結晶...すべてが見事に融合していている。そうすべては幻想だ、しかしスコッティにとってそれは現実なのだ」。
そしてスコセッシの美しい言葉が締めくくる。「恐怖は人間の弱さだ。でも生きていることの証でもあるのだ。『めまい』はストーリーを超えて、生きること、人生そのものだ」。

『サイコ』、そして観客への愛

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1960年、それまでの10年間でテレビが普及し、観客と映画の関係、観客層も大きくが変わろうとしてきたとき、ヒッチコックは『サイコ』によって「世界中の観客をふるえあがらせた」(リンクレーター)。「『サイコ』は物語の話術の傑作と言える。いや、それ以上の作品だ。世界中が大きく変わった。変わらなかったのは『サイコ』だ。」(スコセッシ)『サイコ』はヒッチコック自身の企画・製作で、彼の作品にとっては低予算、わずか80万ドルで撮られたが、世界中でヒットを遂げた。

トリュフォー:『サイコ』は実験映画だと言っていいでしょうか。
ヒッチコック:そうだな。しかしわたしの最大の満足は、この映画が観客にすばらしく受けたことだ。それがわたしにはいちばん大事なことだ。主題なんか、どうでもいい。演技なんか、どうでもいい。大事なことは、映画のさまざまなディーテールが、映像が、音響が、純粋に技術的な要素のすべてが、観客に悲鳴をあげさせるに至ったということだ。大衆のエモーションを生み出すために映画技術を駆使することこそ、わたしたちの最大の歓びだ。(...)映画は観客のために作られなければならない。私は個人的に観客に関心を持っている。映画の力は一挙に多くの人々を感動されることなんだ。世界最大の映像メディアだからね。

デプレシャンは、ヒッチコックの観客への「信仰にも近い愛」について指摘する。「ヒッチコックのあらゆる映画、そしてとりわけこの"ヒッチ・ブック"において感じられるのは、観客に対する強迫観念とも言える思いだ。それは観客とともに、観客のために映画を作るという思いで、もはやある種の信仰や愛の告白にも近い。『サイコ』はとくにそうしたヒッチコックの思いがもっとも強い作品で、何度も、何度も、観客のために作ったと語っている。」アサイヤスは、ヒッチコックの天才性とは、大衆が受け入れにくいようなテーマを扱いながら、広く観客に訴えたところにあると語る。「ヒッチコックの映画は、サスペンスやエロティズム、変身など、どちらかというと怪しげな感情にもとづいているが、つねにその時代の言葉やオブジェを取り入れている。ヒッチコックの天才性とは、まさにそうしたデリケートで、得体の知れないものをどんな観客にも広く伝え、語りかけることができるところだ。」

ある男のポートレート

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ヒッチコックのその天才性に迫るためにトリュフォーによって行われたインタビューは一冊の本となり、それは世界中で映画作りを目指す者たちにとってバイブルとなったが、「けっして模倣してはならないと堅く自分に誓ってきた」と黒沢清は言う。トリュフォーも"ヒッチ・ブック"の序文で次のように書いている。「今日まで、ヒッチコック作品は多くの追随者と信仰者を生んだが、模倣できるところは限られている。題材の選択、そしてそれを料理するところまではいくだろうが、そこにつらぬかれた精神や個性はけっして模倣できるないものだ。」
デプレシャンは、ヒッチコックがつねにスクリーンから、映画から身を引き、その代わりに観客に十全にスクリーンの中のことを体験させながらも、最後には作品がヒッチコック自身、作家自身のポートレートに見えてくる、それは本当に感動的だ、と述べている。

トリュフォー:愛と憎しみ、善と悪との葛藤こそ、あなたの映画の核になるテーマであり、それをあなたはいろいろなかたちで、つねに強烈に、効果的に、そしてつねに最も単純化されたかたちで表現してきたと思うのです。(...)あなたの作品をすべて混ぜ合わせ、極端に単純にまとめてみると、こんなかたちが、メカニズムが見えてきます。犯罪物のかたちを借りたこともあるし、そうでない場合もあるわけですが(そんなことは問題ではなく)、あなたが40年来ずっと描き続けてきたテーマは何よりもまず、この善と悪との道徳的葛藤(ジレンマ)にほかならなかったのではないか。
ヒッチコック:すばりそのとおりだな。

そのヒッチコックの返事のあと、録音されたテープからトリュフォーが満足げに「それが私の結論です」と述べる声が聞こえてきて、映画『ヒッチコック/トリュフォー』は幕を閉じる。トリュフォーはヒッチコックの映画術について、その究極の職人技について迫り、ヒッチコックが目に見えるすべてをコントロールし、明確に、的確に見せることで、逆に、恐怖、欲望、愛、罪の意識など人間誰もが抱いている問題、つまり目に見えない、精神的なものに到達し、それを親密な形で、「愛の告白」にも似た形で観客たちに伝えてきたことを明らかにした。映画『ヒッチコック/トリュフォー』はそのことの映画史的な意義、そして映画と人生の間の密接な、そしてどこまでも神秘的な関係をあらためて私たちに知らしめてくれる。


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Comment(1)

Posted by PineWood | 2017.01.31

フランソワ・トリュフォー監督の全作品に貫かれる精神がこのヒッチコック映画のタッチであり精神だったのだろう…。師アンドレ・バザンが其を捉えていた訳だが。トリュフォー監督らの創作の秘密が映画本で開示され、本編ではその言質と映像の対比で例証される。お見事!!

『ヒッチコック/トリュフォー』
原題:HITCHCOCK/TRUFFAUT

2016年12月10日(土)より、新宿シネマカリテほか全国順次公開
 
監督/脚本:ケント・ジョーンズ
脚本:セルジュ・トゥビアナ
製作:チャールズ・S・コーエン、オリヴィエ・ミル
撮影(ロサンゼルス):ミハイ・マライメア・Jr.
撮影:ダニエル・コーワン、ニコラス・ベントゲン、リサ・リンツラー
撮影(パリ):エリック・ゴーティエ
撮影(東京):田巻源太
編集:レイチェル・ライヒマン
音楽:ジェレマイア・ボーンフィールド
出演:マーティン・スコセッシ、ウェス・アンダーソン、デビッド・フィンチャー、オリヴィエ・アサイヤス、ピーター・ボグダノヴィッチ、アルノー・デプレシャン、ジェームズ・グレイ、黒沢清、リチャード・リンクレイター、ポール・シュレイダー、ボブ・バラバン(ナレーター)

Photos by Philippe Halsman/Magnum Photos ©COHEN MEDIA GROUP/ARTLINE FILMS/ARTE FRANCE 2015 ALL RIGHTS RESERVED. 

2015年/アメリカ、フランス/英語、仏語、日本語/80分/ビスタ/カラー/5.1ch
配給:ロングライド

『ヒッチコック/トリュフォー』
オフィシャルサイト
http://hitchcocktruffaut-movie.com


※映画『ヒッチコック/トリュフォー』の中で使用されているヒッチコック、トリュフォー、及び10人の映画監督たちの言葉は字幕を参考にしながら、場合によって翻訳を変更、追加させて頂いた。『定本 映画術 ヒッチコック/トリュフォー』(晶文社)からの直接の引用は、山田宏一氏、蓮實重彦氏の邦訳をそのまま使用させて頂いた。





















































※1ふたりの対談の音源はこちらのサイトから聞くことができる。
https://www.franceinter.fr/emissions/
hitchcock-truffaut-secrets-de-fabrication

http://trombonheur.free.fr/Hitchcock-Truffaut/





















































































※2映画の中では『めまい』や『サイコ』ほど時間を割かれていないが、インタビューでは『汚名』について多くの監督たちが言及しており、ラストも『汚名』の鍵のショットで閉じている。たとえばデプレシャンは、『汚名』の持つ神話的な側面について次のように述べた。「『汚名』における心理的サスペンスは冒頭から、つまり父親に対する有罪判決から、ほとんど神話的な性質を帯びています。ナチの一味だった父親を娘が告発します。そしてその後の驚くべきパーティーのシーン、そこでバーグマンとケーリー・グラントが出会うのですが、彼の顔は見えません。ここから映画は即座に愛の問いへと入って行きます。父親への憎しみの問いと愛の問いが結びつくのです。そしてこの瞬間、早急に「ひねり(ツイスト)」が起こるのです。この作品には何かとてつもなくみだらなで、しかし非常に美しいアイディアがあります。男は、女への欲望と軽蔑がない交ぜとなり、その愛する女を他の男にあてがおうとするのです。『汚名』は『めまい』を想起させずにはいられません。」




















































































































































※3「フィンチャーの『ゴーン・ガール』(14)は後半まさにこの"女性の視点"から語れることになる」とケント・ジョーンは本作のあるインタビューで述べている。
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