『夏の終り』

01.jpg

夏の蜃気楼のような微睡みの中に、"日本的情緒"を再構築する試み
star.gifstar.gifstar.gifstar_half.gif 上原輝樹

藍染めの柄とともに、美しい題字が映し出されるオープニングタイトルから、何かしらの"日本的情緒"を伝えんとする、映画の作り手の意気込みが伝わってくる。後で調べて、この美しい題字は西耕三郎という人の手によるものだと知る。美しい字には、どこか人の居住まいを正すような迫力が宿っている。

横浜港から始まる瀬戸内寂聴の原作小説と違って、映画は木下涼太(綾野剛)が、相澤知子(満島ひかり)の家を随分久しぶりに、唐突に訪れるところから始まる。知子の家には、あまり筆が進んでいそうもない、小説家小杉慎吾(小林薫)が居着いており、何の前触れもなく知子を訪れた涼太は、慎吾と気まずい対面を果たしたに違いない。しかし、映画でその部分が描写されることはない。知子が長い旅行で留守にする間、慎吾と涼太はふたりでよく飲みに出掛けたという挿話も語られるが、そうしたシーンが描写されることはないだろう。『夏の終り』は、どこまでも知子の視点で描かれた"私小説"の映画化であるからだ。その点で、構成や独自の台詞回しの発明があるとしても、原作の精神に忠実に映画化を試みた作品であると言えそうだ。

02.jpg

映画の構成は、時間軸が往来する作りだが、これも原作小説の瀬戸内寂聴の文体に倣ったものだろう。小説「夏の終り」でも、現在の描写から過去の回想へと遷移する際に、わかりやすく段落を変えて一拍置くのではなく、シームレスに過去の記憶へと流れてゆく文体が意識的に使われており、映画でも、そうした知子の意識の流れを重視しているように見える。その結果、登場人物が多くないわりには、知子の元夫である、涼太の"先生"の存在が、映画全体の中で希薄過ぎる感じがなきにしもあらずだが、そうした非構造的で流線的、非論理的なストーリーテリングは、映画の、夢のような、うつつのような時間の朧げな感覚を生み出すことに貢献している。

脚本家宇治田隆史の手による、昭和という時代を新たに手繰り寄せるように編み出された、主に満島ひかりによって見事に表現された独特な台詞回しは、卓越した美術、音楽とともに、本作がレトロな昭和を再生産しただけの空疎な作り物に陥ることを断固として拒否している。熊切組の、映画ならではの独自の空間を創造するという意思は、例えば、この時代の顕著な痕跡を"美術"のみで表現しようとしているところにも見られる。映画において、あまりにも当然の事とはいえ、『カルメン故郷に帰る』(51)、『我が谷は緑なりき』(41/日本公開は1950年)といった当時公開されていたはずの映画の看板や"ニッポンビール"の広告、新宿駅前高架下や小田原駅前を再現した職人的美術に時代を語らせることの喜びを熊切組は味わっているように見える。

03.jpg

そして、(権利処理の問題もあるのだろうが)ラジオからは、安易に当時の流行歌が流れてくるのではなく、ジム・オルークが作曲した当時流れるはずもない、しかし、1950年というジャズの時代の雰囲気を確実に捉えた楽曲が流れてくる。21世紀において、マニアックな目線で、新たなる"日本的情緒"を再定義しようとするかのような、絶妙のフィクション感覚が素晴らしい。熊切監督とジム・オルークによる確信犯的捏造/創造の成果と言えるだろう。

『桐島、部活やめるってよ』(12)の仕事が記憶に鮮明な近藤龍人のキャメラは、藍染士として手に職を持った、生活力のある知子の"手"を繊細に、確固たる意思の持主として捉えている。いささか細すぎるかもしれない、満島ひかりの"手"は、それでも、柄模様を的確に形作り、生活を力強く切り拓いており、彼女の"足"は、その行く方向に躊躇なく踏み出してゆく、そして、強い意志でそこに留まるだろう。しかし、慎吾と涼太との二重生活が、そんな知子の"手"と"足"を狂わせる。涼太の横で寝る知子の手は、夢うつつに、慎吾の手を掴み、降りしきる雨の中、我を忘れて踵を返し、涼太の匂いが充満しているはずの、侘しい部屋を目指して駆け出すことにもなるだろう。

04.jpg

男は老いも若きも目標を失い、輝きは消え失せてゆくが、知子は、時に我を忘れながらも、しなやかに動き、根気強くその道を歩み、自らの欲望を追求することも止めようとしない。近藤龍人のキャメラは、この豊かな運動体である、知子=満島ひかりの姿を存分に捉え、見るものを幸福な気分にさせてくれる。十年以上にも渡る男女三人の濃密な時間を、ひと夏の夢物語のような味わいで、人生の濃淡を表現してみせた、熊切組の職人芸に酔い痴れた。


『夏の終り』について、皆様のご意見・ご感想をお待ちしております。
なお、ご投稿頂いたものを掲載するか否かの判断については、
OUTSIDE IN TOKYO 編集部の判断に一任頂きますので、ご了承ください。





Comment(1)

Posted by 田崎 | 2015.12.06

映画の中で、どのシーンが過去なのかよくわからなかったので、お尋ねします。
慎吾が知子に旅館で「一緒に死んでくれないか」と言ったのを過去の話だと解釈したのですが、
慎吾と知子が初めて出会った時に、知子が泣き崩れてる場面で、慎吾が「旅に出よう」と言ってから、慎吾と知子が小田原駅で待ち合わせ、そこから旅館に行ったのではないんでしょうか??

ある、映画の感想ブログ?では、最後のシーンで知子が慎吾と別れようとしている時に慎吾がまた「旅に出よう」っと言ってそれから旅館に行った、と書かれていたのです…

どこか腑に落ちないので質問させていただきました。

『夏の終り』

8月31日(土)より、全国ロードショー
 
監督:熊切和嘉
脚本:宇治田隆史
原作:瀬戸内寂聴『夏の終り』(新潮文庫刊)
製作:藤本款、伊藤和明
プロデューサー:越川道夫、深瀬和美、穂山賢一
アソシエイトプロデューサー:星野秀樹
音楽:ジム・オルーク
撮影:近藤龍人
照明:藤井勇
美術:安宅紀史
音響:菊池信之
衣裳:宮本まさ江
ヘアメイク:清水ちえこ
スクリプター:田口良子
編集:堀善介
型染め協力:西耕三郎
助監督:松尾崇
制作担当:林啓史
出演:満島ひかり、綾野剛、小林薫、赤沼夢羅、安部聡子、小市慢太郎

© 2012年映画「夏の終り」製作委員会

2012年/日本/114分/アメリカンビスタ/DCP5.1ch
配給:クロックワークス

『夏の終り』
オフィシャルサイト
http://natsu-owari.com/
印刷