『約束の地』

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上原輝樹

開巻早々、「古来、"JAUJA/ハウハ"は、豊穣と幸福の地と言われ、多くの者がその地を目指した。そして、世の常であるように、時を経て伝説は膨れ上がっていった。だが確かなことが一つ、その楽園に辿り着いた者はいない。」というテロップが示される。簡単に言ってしまえば、"ハウハ"とは"楽園"の同義語と考えて良いのだろうか?邦題は、それが転じて『約束の地』とされている。

テロップの表示が終わるやいなや、角の丸いスタンダードサイズでフレーミングされた画面に目が釘付けになる。それは、もちろん、このフォーマットの効果というよりは、映されている画、それ自体の魅力によるものだ。キャメラは、互いに違う方向を向いて座っているディネセン大尉(ヴィゴ・モーテンセン)と娘インゲボルグ(ヴィルビョーク・マリン・アガー)を捉え、その背景には、広大な草原が広がっている。草原の明るい緑色と娘が着ている深みのあるブルーの衣装、その配色が"自然"に見える限りにおいて、限界まで上げられたコントラストが素晴らしく、実に魅力的な"映画的自然"を創造することに成功している。アキ・カウリスマキが絶対的な信頼を置くキャメラマン、ティモ・サルミネンの色彩感覚は、この作品において決定的に重要な役割を果たしている。

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デンマークから、この異郷の地に派遣された技師である父は、故郷に帰ったら犬を飼おう、どんな犬がいい?と尋ね、娘は、私の側を離れない犬がいいわと答える。父は、それは難しい、と言って溜め息をつきながらも、きっと見つかるさ、と自らに言い聞かせながら、娘を勇気づけてみせる。観客が、父娘を同じフレームに収めたこのショットが、如何に貴重なものであるかということに気付くのに左程時間を要しないが、ここで語られる"犬"が、本作において、どれほど重要な地位を占めることになるかを知るには、本作の終盤まで待たねばならないだろう。リサンドロ・アロンソ監督の息の長い演出は、せいぜい100年程度の生きる時間しか与えられていない生き物である人間存在の悲哀を、フォトジェニックな絵画的空間の中に凝縮してみせる。

この導入部が終わったところで、『JAUJA』というタイトルがスクリーン中央に映される。"JAUJA/ハウハ"という言葉を少し調べてみると、16世紀にスペイン人が南米大陸を侵略した時(コンキスタドール)に、ペルーに最初のスペイン人による首都を建設した、その地が、他ならぬハウハだったということである。ハウハは、その後、リマに首都が整備されたこともあって次第に忘れさられていくが、侵略された側にとってみれば、スペイン人侵略の前と後の分水領として、象徴的な意味を持つであろうことは想像に難くない。つまり、侵略者にとっては、"楽園"として記憶され続けている"ハウハ"は、アンデスの民にとってみれば、そもそもの過ちの"起源"以外の何物でもない。本作『約束の地』は、そうした二面性を孕んだ映画として見ることが可能だろう。そもそも日本語で"約束の地"と言った場合に真っ先に想起されるのは、かのイスラエルの歴史的複雑性なのだとしたら、この邦題はあながち的外れなものではないのかもしれない。

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タイトルが示された後、私たちが真っ先に目にするのは、澄み切った"水"でナイフを洗うインディオの男の姿である。返り血を浴びたのだろうか?手や顔に血痕らしきものが付着している。美しい湿地帯を背景に捉えたこのシーンにおいて、この地の生態系の豊かさを物語るように、かつて恐竜が存在した時代の音とはこのようなものだったのではないかとすら思わせる、何とも得体の知れない、無数の鳥たちの鳴声や動物の嘶き、潮騒を伝える豊かな音響がスクリーンから立ち上がってくる。

キャメラは、今度は同じ湿地帯の彼方で水浴している、もうひとりの男を捉える。帽子を被った裸の男が水に浸かって体を休めているのだが、水面を伝わる波紋が、男が水中で何をまさぐっているのかを、明白に伝えている。やがて、水から上がった男は、同じ地平の彼方にいるディネセン大尉の方に近づいていき会話を始める。会話から、この男がアルゼンチン軍の隊長(中尉)であることがわかる。現地人を"ココナッツ頭"と呼び、どうせ殲滅してしまうのだから何と呼んでも構うまいとうそぶく中尉の野蛮さを、ディネセンは不快に思うだろう。そして、ディネセンは、娘に立派な馬を贈呈したいという中尉の申し出を、程々にあしらい、その場を去っていく。去っていくディネンセンの姿を"不愉快"、とも何とも言えぬ表情で見送る、狡猾そうな中尉の姿を、リサンドロ・アロンソ監督は、長々とフィルムに焼き付ける、一種異様な演出が、不穏な気配をスクリーンに充満させる。

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インゲと合流したディネセンは、あの豚野郎には近づくなよ、と言い、近づくと思う?とインゲは即答する。ディネセンは、ここは退屈だ、可哀想にとインゲを思いやるが、娘はしかし、この地にいることを内心満更でもなく思っていて、荒野は満たされるから好き、と答える。インゲと話している内に、従者のインディオがディネセンを置き去って向こうの方へいってしまう。慌てて、ディネセンは従者を追って歩き始める。主人に対する従者の面従腹背ぶりと父娘の心のすれ違いが垣間見える一連のシークエンスだ。"後ろ向き"でスクリーンに登場したディネセンは、今や、自らをとりまく全てのものから"遅れ"をとりはじめている。

この映画においてとりわけ雄弁な"水面"に、今度は、兵隊の人形が浮いている。若い男が、人形を拾ってインゲに渡す。惹かれ合う二人の姿を見つけた、若い男の上官である中尉が、コルト!靴を脱げ!と怒声を発し、若い男女の秘密は白日の下に晒されることになる。中尉はディネセンと共に、コルトを尋問した挙句、元は勇猛なスペイン兵だったが、今では女性の格好をして忽然と姿を表し、インディオたちと一緒に殺人や略奪を繰り返しているという謎の人物、"スルアガ"を捉えて、その物証を持ち帰るよう、コルトに命じる。そこへインゲがやってくるが、ディネセンは彼女を追い払ってしまう。その場を追われたインゲは、野営地に戻るとすぐに、父の元を去る準備を始めるのだった。そして、その夜、コルトとインゲの計画は実行に移される。

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インゲが去っていく姿を従者が見ていたが、彼をそのことをディネセンに伝えない。ひとりで捜索に行こうとするディネセンを中尉は制止するが、ディネセンは聞く耳を持たず、夜明け前の荒野をひとり進んでゆく。ディネセンの理性は何処かへと消え去り、娘を奪われた怒りが、彼の心を捉えて離さない。中尉の時と同様、怒りに我を忘れる男の表情を長廻しで捉える、リサンドロ・アロンソ監督の静かで力強い演出は、ストローブ=ユイレやペドロ・コスタが到達した、編集の時間、フレーミングの時間の厳密さを、映画史の余白を通じて、記憶の彼方から呼び覚ます。

遠路、ヨーロッパから"楽園"を目指してやってきた男は、従者に裏切られ、最愛の娘に去られ、怒りに駆られて荒野をひたすら歩き続け、やがて途方に暮れる。我が子を失った親に、その先、どのような生きる希望が残されているというのか。しかし、深い絶望のその先に描かれる、ことの次第には、見るものもただただ呆気にとられる他ないだろう。侵略者の協力者として他者の地を訪れたことの代償か、あるいは、殺戮されたものたちの幽霊が、荒野を支配しているのか、そうした亡霊すら時間の渦の中に飲み込んでしまう、予想だにしない終盤の展開は、21世紀的感覚のポッピズムで人間的時間を超越して、生物の起源である"水"の物質的時間を循環する。

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娘を見つけることが出来ず、絶望に暮れるディネセンだが、犬に導かれて命拾いをする。犬に導かれるままに、洞窟の入口で出会った老婆(ギタ・ナービュ)とディネセンの会話における、老婆が示す超然とした佇まいと、この世と隔絶された孤独感には背筋が薄ら寒くなるような思いがする。少年時代をデンマークで過ごしたヴィゴ・モーテンセンが憧れを抱き、彼の地で155本もの映画に出演しているという伝説的スターである彼女と、ヴィゴ自らが出演交渉をして共演を果たしたのだという裏話を知るまでもなく、ギタ・ネービュの声の深さに、ゾッとさせられるのだ。

思わぬ形で、ディネセンの妻、つまりは、インゲの母親の挿話が語られた後、その声が「家族とは、いずれなくなるもの、それでいい。」と言い、それでも、「人間を一歩前に前進させるものは一体何なのか?」と問いかける。この相矛盾する認識を示すダイアローグは、一体、誰と誰の間で交わされたものなのか?洞窟の中の対話において、時空を超越して老婆とインゲが一瞬交差する瞬間、その瞬間こそが"映画"だと言い切ってしまいたい強烈な誘惑に駆られる。

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"犬"は、人間の生物的時間を超越して、人の魂を遺伝子レベルで導く。「犬は人間が考えているより、余程賢い。犬には先のことを見通せる力がある」のだ。もちろん、"犬"と言えば、忘れてはならない映画がある。ゴダールのあの3D映画である。21世紀の語り手は、今や、"犬"をナラティブに大胆に導入し始めているが、20世紀には既に"猫"の視点を借りて語る小説が堂々と存在しているのだから、それ自体は左程驚くべきことではないかもしれない。しかし、それによって到達した映画的境地の"遠さ"に驚かされる。洞窟から出たディネセンは、もはや呆然として笑うしかなかったが、観客もまた、ディネセンと同じ地点にまで連れ去られているのだ。

この大胆極まりない冒険の首謀者がリサンドロ・アロンソ監督であることは間違いのない事実だが、確信犯的な共犯者として特筆すべきは、製作・主演、そして音楽(作曲)を手掛けたヴィゴ・モーテンセンの存在だろう。ヴィゴがピアノを弾き、Bucketheadがギターを奏でる「Sunrise」と「Moonset」という素晴らしい楽曲が、所詮自然の一部でしかありえない"人間"、固有の叙情を伝えている。自然の営みによって「Sunrise」と「Moonset」が繰り返す永遠とも知れない時間の流れの中で、"水"の中に溶けた若い二人の愛の残り香が、いずれ、私たちの口元へ巡ってくることもあるだろうか?"映画"だけが、その答えを知っている。


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Comment(1)

Posted by 雲行 | 2016.08.22

衛星放送の録画を昨夜観ました。
予約で録画したものではなく、たまたまテレビに映った美しい画面が気になり、途中から録ったため、冒頭の数分間が抜けていたのですが…

蔭さまでようやく映画ラストの部分が少し分かりました。
素敵なレビューを有難うございます。

『約束の地』
英題: JAUJA

6月13日(土)より、ユーロスペースほか、全国順次公開
 
監督:リサンドロ・アロンソ
製作・主演・音楽:ヴィゴ・モーテンセン
撮影:ティモ・サルミネン
出演:ヴィゴ・モーテンセン、ヴィールビョーク・マリン・アガー、ギタ・ナービュ

2014年/アルゼンチン、デンマーク、フランス、メキシコ、アメリカ、ドイツ、ブラジル、オランダ/110分/カラー/スタンダードサイズ
配給:ブロードメディア・スタジオ

『約束の地』
オフィシャルサイト
http://www.jauja-yakusokunochi.com
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