『家族の肖像』

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上原輝樹

ルキーノ・ヴィスコンティ、晩年の傑作『家族の肖像』(74)が、1978年の日本初公開から39年を経た今、デジタル修復の作業を経て、より鮮やかな色彩を帯びてスクリーンに甦った。ローマの瀟洒なアパートメントで「家族の肖像画(カンバセーション・ピース/conversation piece)」に囲まれて静かに暮らす主人公の老教授をバート・ランカスターが演じ、FENDIの毛皮を颯爽と纏い教授の生活に闖入する伯爵夫人をシルヴァーナ・マンガーノ、ヴィスコンティの公私に渡る寵愛を受けたヘルムート・バーガーがサンローランの衣装を纏い伯爵夫人の燕コンラッドを演じている。そして、教授が住まう"部屋"と、偽ローマの風景を見渡す魔術的なテラスを造り上げたマリオ・ガルブリアの美術とダリオ・シモーニのセットデザイン、長年に亘ってヴィスコンティ作品を手掛けたピエロ・トージの衣装デザインに至るまで、映画を構成する人物と事物の煌びやかな豪華さには、2017年に公開されるであろうすべての映画が束になっても敵わない、20世紀ならではの頽廃の美が宿っている。映画の美とは何より、頽廃の美であることを、ヴィスコンティの作品は鮮やかに思い起こさせてくれる。

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"音"が画に先行する

映画は、何かが砕ける爆音とともに始まり、スクリーンは冒頭から不穏な気配に包まれる。部屋では、「家族の肖像画」のコレクターである教授が、パリの画廊が持ち込んだ作品を拡大鏡で覗き込んでいる。明らかに作品に興味を持っているが、経済的事情もあって、購入には消極的だ。そこに、ビアンカ・ブルモンティ伯爵夫人が娘のリエッタ(クラウディア・マルサーニ)と婚約者ステファーノ(ステファーノ・パトリッツィ)を引き連れて現れ、階上の部屋を貸してほしいと一方的に交渉を始める。頑に拒否する教授だが、伯爵夫人の若い燕コンラッドが現れると、教授が彼を見初めたかのように、事態は俄に活気づいていく。コンラッドの登場とともに、フランコ・マンニーノのカラフルなスコアが流れ、映画を支配していた重苦しい空気に微かな変化が訪れるのだ。

しかし、教授自身はどうやら、この変化に無自覚な様子だ。結局、強引な手練主管を弄する公爵夫人の手に落ちて部屋を貸すことになり、そこに伯爵夫人が囲うコンラッドが住み始める。そして、またもや突然の爆音が事態の変化を告げる。あろうことか、コンラッドは部屋の壁をぶち抜く改装工事を始めていたのだ。美術品の上に階上から水が滴り落ちる災難に見舞われた教授は、慌てて階上に上り、抗議をするが、コンラッドは、ブルモンティ夫人から部屋は自由に使って良いと許可を得ていると主張する。この諍いのシーンにおいても、フランコ・マンニーノによる流麗なスコアが流れている。教授とコンラッド、当事者の二人はまだ気付いていないが、映画は二人の出会いを祝福している。その役割を"音"が登場人物に先んじて担っているのだ。

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ふたつの魂の邂逅

粗野で紳士的な慎ましさに欠けるコンラッドの立ち居振る舞いに苛立ちを隠せない教授だが、問題を明らかにする為にブルモンティ夫人にかけた電話口で、コンラッドが夫人を罵り、電話を切った後に「そもそも、金持ちって奴らは人間として卑しいんだ」と悪態をつく。次第に、ブルモンティ夫人を"共通の敵"と見立てた教授とコンラッドの奇妙な同盟関係、あるいは、コンラッドを中心とした奇妙な三角関係が形作られていき、以来、教授と伯爵夫人は、ことあるごとにコンラッドを巡って対立していくことになる。落ち着きを取り戻したコンラッドは、モーツァルトのバーンスタイン盤のレコードを見つけると、「僕はベーム盤を持っている」と言いながら、盤に針を落とす。美しいアリア、「神よ、あなたにお伝えできれば」が部屋に鳴り響く中、壁に飾られている「家族の肖像画」の一作を、アーサー・デイヴィスの作品だと指摘したことで、教授はコンラッドが教養のある人間であることを知る。ここで音楽の恩寵に登場人物の心情が追いつき、音と画が初めての調和を見せる。しかし、幸福な時間が支配しているように見えるこのシークエンスにおいてもコンラッドは、1分も経たない内に友人に電話を掛け、週末の遊びの算段を立て始めるだろう。全てを受け身で享受するしかない教授と若いコンラッドでは、生きている時間の速度が違う。

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コンラッドは電話口でブルモンティ夫人に関係の終わりを告げたが、伯爵夫人は、愛憎の綯い交ぜになった複雑な感情をコンラッドに抱いていて、ふたりの関係は腐れ縁のように続いていく。一方、教授はコンラッドとの会話から、彼がかつては美術史を学ぶ学生であったが、"68年"の政治闘争に深く関わり、今は伯爵夫人の妾として生活することになった経緯を知らされる。本作が作られた1970年代中頃のヨーロッパは、後年数多の映画でも描かれることになる"鉛の時代"の真っ只中にあり、中でもイタリアでは、1975年の選挙で共産党が躍進し、奇しくも、同年にはパゾリーニが殺害される、そうしたきな臭い時代背景が、本作に色濃く影響を及ぼしていることは見逃せない。ヴィスコンティ自身が、かつてレジスタンス活動に身を投じて投獄され、処刑されかけたという経験の持ち主であることを考えても、ヘルムート・バーガーが演じる左翼活動家崩れの男妾コンラッドの人物造形には、この時代固有の、知性と教養に資本主義社会への反抗心と政治的挫折が複雑に絡まったヒューマン・コンディションに対するシンパシーを感じとることができる。しかし、そうした複雑な状況にある若者コンラッドの中に教授が見たのは、彼の教養と審美眼であり、現実生活のリアリティではなかった。コンラッドの身の上話を聞きながらも、次の瞬間にはアーサー・デイヴィスの絵画について語りだす場面に、同世代の知識人に対する、ヴィスコンティ監督が込めた辛辣な寓意を読み取ることができる。


教授の孤独

紆余曲折を経て、コンラッドが壊した部屋の改修工事の合意に至ったブルモンティ一行と教授は、キッチンで親しげな時間を共に過ごすようになり、謎めいていた教授の過去が徐々に語られることになるが、それでも教授の内心が詳らかに明かされることはない。ただ、人と関わりを持てば面倒に巻き込まれる、カラスは群れるものだが、鷲は一羽で舞い上がるものだろうと語るばかりだ。それに対して、コンラッドは聖書を引用し、孤独なものが弱った時、誰も助けるものはいない、という警句で応酬する。会話の流れから、伯爵夫人一行が晩餐に訪れるという約束が交わされるが、その夜、約束が履行されることはなかった。仄かな期待を裏切られた教授は、所詮彼等はその程度の人間なのだと家政婦のエルミニアに愚痴を言って、自らを慰めるしかない。

それから一ヶ月間、何の音沙汰もなかったが、ある日突然、一行は舞い戻ってくる。1ヶ月前の非礼を責める教授に対して、若者たちは何ら悪ぶる素振りも見せず、「Hello! Old Man!」としか発話出来ないオウムを、土産だと言って、嫌がる教授に押し付けて去って行く。その晩もベッドで読書をしていた教授の平和が、またもや階上からの激しい物音によって破られる。様子を見に行くと、暗闇に中にコンラッドが血まみれで倒れている。どうやら、何かの因縁で昔の仲間に襲われたらしい。教授は、彼の庇護者となって、彼の母親が戦争中に政治犯を匿うために作ったのだという隠し部屋に、弱ったコンラッドを抱き寄せて連れて行き、看病をする。

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甘美な記憶と孤独の起源

明け方までコンラッドの面倒を見ていた教授は、居間のソファで寝てしまい、朝になってやってきたエルミニアを驚かせる。そして、騒がしい声が玄関から聴こえてくる。ブルモンティ公爵夫人が電話を借りにやってきたのだ。教授は部屋の暗がりに留まって、外のけたたましい女性たちの声を聴いている。そして、ドミニク・サンダが母親を演じる、あの畢竟美しい回想シーンへと映画は流れて行く。この回想シーンに始まる一連の流れが実に素晴らしい。母親の追憶から我に帰った教授が、コンラッドの様子を見に行くと、コンラッドはシャワーを浴びている。シャワーを終えて、裸体にタオルを巻いたコンラッドが自らの過去を赤裸々に告白するのだが、教授は冷ややかな言葉を浴びせる。もうトラブルはたくさんだ、私は静かな生活が欲しい、もう出て行ってくれと。自らの寝室に戻った教授は、モーツァルトの「ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲」を聴きながら、今度はクラウディア・カルディナーレが演じる妻との別れの場面、そして、神々しいまでの美しさであった婚礼の日、彼女がブーケを取るしぐさを、永久に反復するかのように追憶している。あまりにも甘美であると同時に、永遠に失われてしまったものへの嘆きが同居する記憶の顕現に、現実世界のすべての事象は後景へと遠のいていく。

教授が、モーツァルトを聴いていると、もうひとつ別の音源が鳴っていることに気付く。それは隣の部屋から聴こえてくるポップソングだった。その音に誘われて教授が部屋を覗くと、そこでは3人の若者が全裸で戯れていた。部屋の入り口に立ち尽くす教授を見つけたリエッタが言う。
「美しい肢体を見たら追い求めよ 女であれ男であれ抱け 恥じらわず、隠さず、人生は短い その時を楽しむのだ 墓場に快楽はないのだから」
これは、オーデンの最期の詩、教授も若い頃は楽しんだのでしょう?と。

しかし教授は、そんなことはない、と言う。私が若い頃は、学問をし、旅をし、戦争があった、そして結婚をしたが、それは破局に終わったと。妻は、別れ際に、教授に助けを求めたが、教授はそれを受け入れようとしなかった。夫婦は別れ、何かが永遠に失われた。教授は、その時に失った人間性を今だに取り戻せないでいるのだ。そして、今また、「私の知識を伝える子供がほしい、小さい子供ではなくて、年かさのいった子供だ」と願いを口にしながら、"精神の息子"コンラッドを突き放そうとする。母親と妻との時間を追憶し、嘆く、その甘美な瞬間だけが、教授の孤独な魂を癒している。

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最後の晩餐

静かな生活に引き蘢ろうとする教授と、"スーパー・ファーザー"として教授を慕う若者たちとの攻防は寄せては返す波のように何度も繰り返されていく。そして、リエッタの誘いに半ば巻き込まれたような形で、教授は再び一行を晩餐に招待することになる。これが、この"疑似家族"の最後の晩餐になるだろう。重い雰囲気で誰もが押し黙る最後の晩餐で、ステファノが沈黙を破るように教授を促す。教授は、18世紀のイギリスで玄関に飾られていたそれらの作品が「カンバセーション・ピース/会話のきっかけ」と呼ばれるようになった事実を反復するかのように、「家族の肖像画」の一枚を話題として提供する。教授はついに、心の内を明かし、コンラッドと伯爵夫人の間には破局が訪れるだろう。寄せては返す波のように集合と離散を繰り返して来た、この"疑似家族"は、それを反復する度に、本物の家族が持ちうる"面倒臭さ"を獲得していく。

絵画作品には描かれていない生(なま)の人間存在の厄災、人と人との間で生じる衝突や誘惑、嘘と欺瞞、嫉妬や怒りの感情の爆発、そうした神経を磨り減らす事態の全てが、"家族"と呼ばれる人間の集まりには不可避であることをヴィスコンティは執拗に描写している。その上で、そうした人間存在の煩わしさを回避してしまった者の末路を残酷に描き切り、"受け入れよ"という思念を伝えているように思える。さもなければ、自分を慕って近づいて来た人間の足音すら、死神の足音のように聴こえるようになるだろうと。それは、額縁の中に収まった18世紀の美しい「家族の肖像画」では描きようのない、21世紀の現代においてもなお、フレームの外の世界に働きかける力能を持ち、現実に拮抗する重層的な表現を可能にした"映画"だからこそ成し得た、思念の顕現だった。


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『家族の肖像』
英題:Conversation Piece

2月11日(祝・土)より、岩波ホールほか全国順次ロードショー
 
監督・脚本:ルキーノ・ヴィスコンティ
脚本:スーゾ・チェッキ・ダミーコ
原案・脚本:エンリコ・メディオーリ
美術:マリオ・ガルブリア
撮影:パスクァリーノ・デ・サンティス
音楽:フランコ・マンニーノ
編集:ルッジェーロ・マストロヤンニ
衣装:ヴェーラ・マルツォ
製作:ジョヴァンニ・ベルトルッチ
マンガーノの衣装デザイン:ピエロ・トージ
出演:バート・ランカスター、シルヴァーナ・マンガーノ、ヘルムート・バーガー、クラウディア・マルサーニ、ステファーノ・パトリッツィ、ロモーロ・ヴァッリ、ドミニク・サンダ、クラウディア・カルディナーレ

© Minerva Pictures

1974年/イタリア=フランス映画/オリジナル英語版/121分/モノラル/シネマスコープ
配給:ザジフィルムズ

『家族の肖像』
オフィシャルサイト
http://www.zaziefilms.com/
kazokunoshozo/
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