『アンジェリカの微笑み』

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上原輝樹

"映画においてもっとも奇妙なのは、瞬間性の連続的継起によって生じる映像の運動である"
マノエル・ド・オリヴェイラ(※1)

マノエル・ド・オリヴェイラ監督、101歳の時の作品『アンジェリカの微笑み』(10)は、2010年のカンヌ国際映画祭<ある視点部門>オープニング作品として上映されて以来、日本国内での公開が熱望されてきた作品である。その後、配給会社が倒産するという紆余曲折を経て公開に至るまで、約5年の歳月が流れている。

そもそも、本作の脚本は1952年には既に執筆されており、当時の脚本は、主人公のユダヤ人青年の役柄に、第二次世界大戦におけるホロコーストの記憶が生々しく影を落とすものだったということが、監督自身の発言によって明かされている。サラザール独裁体制下(1932〜68)のポルトガル国立情報局の事前検閲によって多くの企画が葬り去られる(※2)中、この脚本も、そうして葬り去られた多くの企画の一本だったということだろう。しかし、何度も死にかけた脚本は、21世紀の社会状況に照らし合わせて見直された末、"現実に抗って"息を吹き返し、60年を経た今、私たちの眼の前にその"奇妙"な全容を露わにした。

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映画の舞台は、あの名作『アブラハム渓谷』(93)の記憶を鮮烈に呼び覚ます、ポルトガル第二の都市ポルトを流れるドロウ河の流域だ。石畳の舗道に立ち並ぶ白い家々を覆うレンガ色の屋根、カトリック教会の尖塔、河沿いの斜面一面に広がる葡萄畑とオリーブの木々、ドロウ河を見渡す立体的な地形が織り成す、映画史に残る美しい景観の中を、監督の分身のような孫リカルド・トレバ演じるユダヤ人青年イザクが、キャメラのファインダー越しに捉えてしまった絶世の美女アンジェリカ(ピラール・ロペス・デ・アジャラ)の"微笑み"に取り憑かれ、狂気の淵から忘我の彼方へと駆け抜けていく。"瞬間性の連続的継起によって生じる映像の運動"とは、まさにこのことだ。ドロウ河流域の豊かな映画的景観と、そこに暮らす人々の佇まいを些か幽玄な感触を湛えつつもリアリズムで捉えた描写は、いずれ映画の原初の記憶を甦らせるメリエス的ともいうべき幻想的なシークエンスへの詩的変容を遂げて、ドロウ河の夜を純粋な想像的空間に、人間を非物質的存在である魂へと変転させて、涅槃領域へと飛翔していく。

"音"は、他の現代的なオリヴェイラ作品と同様、"言葉"とともに重要な構成要素を成している。イザクが山の手の瀟洒なポルタシュ館の令嬢アンジェリカ死去の報せを受ける前から、彼の部屋ではラジオが"奇妙"なノイズを発している。それは恰も、ノイズが異界との交信を可能にしているかのように、スクリーンに何がしかの予兆めいた気配を漂わせる。そして、イザクの部屋の外を行き交う工事用の車両が辺り一面に響かせる轟音は、自然と人間が豊かな調和を成して暮らす風光明媚な地にも浸食してくるグローバル資本の災いを印象付けるかのように、暴力的な一撃をスクリーンにぶちまける。未だに、"音"は映像に従属するものであるという偏見に取り憑かれた映画が氾濫する世界では、101歳の映画監督が"音"を映像と対等な関係性において示す現代映画必須の試みも、先駆的なものであり続けるしかない。

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アンジェリカの一連の写真と農夫たちの写真の切り返しのショット、そこに素朴で力強い農夫の歌声が瑞々しく立ち上る物語的脈絡を欠いた映画的瞬間の美しい連なりほど、"瞬間性の連続的継起によって生じる映像の運動"という、監督自らが認(したた)めた映画の定義を"奇妙"にも裏付ける表現が他にあるだろうか。"映画"においては、死んでいるものすら、"瞬間性の連続的継起によって"滑らかに動き出してしまうという"奇妙"な真理。100歳を超える齢において、生と死、物質と反物質、愛と狂気、カトリックとユダヤの異なる宗教観、地球の大地と宇宙の形而上学といった森羅万象を語る"言葉"を、絵画的な美しさを湛える映像と互角に対峙することで、人間が体験しうることの限界まで"映画"を通じて思考し、ついには二項対立する事物の中に調和を見出す、オリヴェイラ監督の最晩年を飾るに相応しい本作には、"映画とは何か"という永遠の謎に対する、素晴らしい実践と問い掛けが、実に"奇妙"な形で若々しく息づいている。

オリヴェイラ監督は、劇場用長編処女作『アニキ・ボボ』(42)を撮った後、14年間、映画製作から離れざるを得ず、その間、家業や葡萄栽培の農作業に従事していた(※2)ことが伝えられているが、監督の死後に公開するよう言付けられ、今年のカンヌ国際映画祭でのプレミア上映に続いて、山形国際ドキュメンタリー映画祭で上映された『訪問、 もしくは記憶、そして告白』(82)において、映画作りは農作業と似ている、自分は農作業が大好きだ、という旨のことを"告白"しており、その当時の農作業の記憶が、それから約60年を経た本作において"大地を耕す"という、"愛"に満ちた主題のひとつとして、魂のロマンスとともにスクリーンに結実するさまは、如何にも"世界最大の映画作家"(蓮實重彦)と称されるオリヴェイラ監督にこそ相応しい、スケールの大きな天啓的な巡り合わせではないか。


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Comment(3)

Posted by PineWood | 2016.07.14

昨日のオリヴェイラ監督シンポジウムで編集者に拠って明らかにされたのは自己のイメージを定着させる為にCG テクノ等へ興味を示した老監督の執念でその一例に本編の飛翔シーンがあったー。編集者のフィルムをカットし繋いで行くという一連の手作業、その換えがたい身体性はデジタル方式では無い特性だが、映画を作り続ける為に監督が逸早く新技術を受け入れて作品創作の糧にして仕舞う辺りが…。連続する瞬間の継続、マイブリッジの射撃銃から想を獲た活動する写真という、サイレント映画から始まった映画そのものが、当時は先端技術を駆使したアバンギャルドだったから当然と言う事なのかも知れないが。また、上映された1981年の文藝映画(フランシスカ)でも自然光の撮影や音楽、編集テンポ等、最高の水準を維持している様で映画愛は一生涯貫かれて行く…。

Posted by PineWood | 2016.02.03

永遠に眠るアンジェリカの眼が啓くシーンの感動は、昨日、見たイエス受難劇(春の劇)で十字架のキリストの胸を槍で突いて絶命させた盲人の眼が啓くシーンと重なった!赦しと愛と大地の歌とも言うべき田舎の民衆劇の崇高なまでの美学はドライエルの映画の奇跡を想わせ、アンジェリカの写真となって空を飛ぶ…。シャガールの絵の恋人たちのシュールな飛翔のように。時は移ろいオリビエイラ監督は現代への警句を遺して飛び立った。

Posted by PineWood | 2015.12.15

ポルトガルの都市を舞台にしたペドロ・コスタ監督、カウリスマキ監督らとのオムニバス映画でオリビエイラ監督は観光客のカメラによって囚われの身となってしまう大王彫像の末路をコミカルに描いた。今回、亡き絶世の美女に囚われの身となるのは、青年のアマチュア・カメラマン。ジャン・コクトー監督の(美女と野獣)さながらに空中浮遊、昇天して行くファンタジックな展開がいい!青年の撮った耕人たちの逞しい歌声と共にフィナーレとなる辺り、処女作にたち戻ったみたいで心に滲みる。

『アンジェリカの微笑み』
原題:The Strange Case of Angelica

12月5日(土)より Bunkamuraル・シネマ他全国順次ロードショー
 
監督・脚本:マノエル・ド・オリヴェイラ
撮影:サビーヌ・ランスラン
録音:アンリ・マイコフ
編集:ヴァレリー・ロワズルー
美術:クリスティアン・マルティ、ジョゼ・ペドロ・ペーニャ
衣装:アデライド・トレパ
出演:リカルド・トレパ、ピラール・ロペス・デ・アジャラ、レオノール・シルヴェイラ、ルイス・ミゲル・シントラ、イザベル・ルート

© Filmes Do Tejo II, Eddie Saeta S.A., Les Films De l'Après-Midi,Mostra Internacional de Cinema 2010

2010年/ポルトガル・スペイン・フランス・ブラジル/97分/カラー
配給:クレストインターナショナル

『アンジェリカの微笑み』
オフィシャルサイト
www.crest-inter.co.jp/angelica


※1
「「言葉と映画」マノエル・デ・オリヴェイラ」より引用
カイエ・ド・シネマ2001年3月号:葡語の仏訳から邦訳 谷昌親
「マノエル・デ・オリヴェイラと現代ポルトガル映画」エスクァイアマガジンジャパン掲載

※2
「マノエル・デ・オリヴェイラ バイオグラフィ 瀬尾尚史」より引用
「マノエル・デ・オリヴェイラと現代ポルトガル映画」エスクァイアマガジンジャパン掲載
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